岩堀罷帰之刻、以口上御懇蒙仰候、畏入候、其已後雖可申入候、路次断絶之間、遅延候、就爰元様躰、進出羽山伏候、去月十日比、憲房上州衆被引立、毛呂要害へ被取懸候、時分柄、有案内者、無水時節被成調儀候、於彼地可致一戦以覚悟、十月十六日、当地江戸罷立、中途へ打出候処、御同名新五郎方・藤田右衛門佐・小幡、其外和談取刷由申来候間、勝沼ニ令滞留、承合候処、不日ニ遠山・秩父次郎陣所へ彼面ゝ被越、遂対談候間、定当座之刷計儀与存之候処、先以各へ令面談候上者、兎角為不申及、和談之形ニ落着候間、毛呂城衆引除、翌日則上州衆被入馬候、定色ゝ可有其聞候間、凡時宜を申宣候、惣社ヘ聊申送候間、自彼地可有伝達候哉、巨細猶以出羽山伏ニ為申聞候、不弁之者ニ候間、難申分候、凡此分候、随而、甲州之儀も、武田信虎頻而和談之事雖被申候、依駿州之事遅延候、然而、彼被官荻原備中守半途ヘ罷出、歎之候間、対信虎無意趣儀候上、先任申候、但彼国之事、例式表裏申方ニ候間、始末之儀如何、雖然、先任申候、何様至于来春者、早ゝ以岩堀可申宣候、就中、今度関東御異見之事令申候処、御存分之段、蒙仰候、先以大慶至極候、畢竟自最前如申候、頼入計候、巨細重可申達候、恐ゝ謹言、

十一月廿三日

北条 氏綱(花押)

謹上 長尾信濃守殿

→小田原市史60「北条氏綱書状」(山形県米沢市教育委員会所蔵上杉文書)

大永4年に比定。

岩堀が帰るに当たり、口上での丁寧な仰せをいただきまして、恐れ入ります。それ以降はご連絡しようと思いながら、交通上の断絶によって遅延していました。こちらの状況について出羽の山伏を送りました。去る月10日頃、上杉憲房が上野国衆を動員して毛呂要害へ攻撃してきました。ちょうど案内する者があり、河川に水がない時期に調儀をされてしまいました。あの地で一戦しようという覚悟で10月16日に当地江戸を出発し、途中まで行ったところで、ご同姓の新五郎方、藤田右衛門佐と小幡、その他の面々が和談を取り図ろうと言ってきたので勝沼で待機することを諒解しました。するとすぐさま遠山の秩父次郎陣所へあの面々がやってきて議決してしまいました。きっと当座の計画なのだろうと思っていたところ、先に各々が面談した上は、異議は言えずで、和談の形に落着しました。毛呂城衆が引き上げて、翌日すぐに上野国衆が馬を入れました。恐らく色々とお聞きのこととは思いますが、おおよそのところを申し上げておきます。惣社へ少し連絡しておりましたので、あの地からご通知があるでしょうか。詳細は更に出羽山伏へ申し聞かせておりますが、不器用な者なので、申し上げるのも難しいかと思います。大体はこの書状の通りです。そして甲斐国のことも、武田信虎がしきりに和談を申してきました。駿河国のことで遅延していましたが、あちらの被官である荻原備中守が途中まで出て嘆願しましたので、信虎に対して意趣がない上は、まずは任せます。但しあの国のことは、例によって裏表を申すでしょうから、首尾のほうはどうでしょうか。とはいえ、まずは任せます。何れにせよ来春になったら、早々に岩堀から申し上げるようにしましょう。とりわけ、この度の関東へのご意見のことをお聞かせ下さいとお願いしたら、お考えをお教えいただきました。まず大いに喜ばしい限りです。結局前から申し上げておりますように、お願いするばかりです。詳しくは改めてお伝えするでしょう。

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