氏政室を追って、気付けば年を跨いで思わぬ所まで来てしまった。推論の上に幾重にも想像を重ねている。もうこの辺で閣筆しよう。その前に、私が自身の説明で矛盾を感じていた点を幾つか列挙しておく。

・葬儀が小田原で行なわれたとすると、そのまま早雲寺に墓を作るのではないか。

・氏政室が自害によって、国王丸と国増丸の人質行きがなくなるという確証がない。

・彼女の死の直前に晴信は小田原攻めを言及している。娘の自害が小田原攻めを生んだ訳ではなさそうだ。

※ちなみに、三船台敗戦で大幅に発言力が落ちたとはいえ、氏政は当主として強い決裁権を持っていた筈。実子2名を外交の手駒にしたのは氏政自身ではないか。

何れ機があれば更に考えをまとめてみたい。

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『戦国北条五代』(黒田基樹著・戎光祥出版)が出版されていたので即座に購入。2005年に新人物往来社から刊行されていた『戦国北条ー族』を大幅に修正したものという。

ちなみに同社から昨年出る予定だった『織田信長の尾張時代』は今年にずれ込んだ模様。

ここのところ通勤時間を業務とブログ記事に当てているので読む本が溜まっている。金子拓著の『記憶と歴史学』は特に精読しようと考えているのだが……『上杉謙信の夢と野望』も未読だし。2~3月に『戦国遺文今川氏編』最終巻が出るまでに、予算編成を含めて落ち着いていることを真剣に祈る。

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出先で歴史系の調べ物をしていると、時系列の確認が面倒になる。Windowsだと『スーパー暦』というフリーウェアがあるのだが、これまでのケータイでは年号暦日をWikipediaで一々アクセスするのが億劫だった。

ということでAndroidが主力機になった際、真っ先に見付けたのがこれだ。

閏月も指定できるので、すぐ調べられて便利この上ない。欲を言えば干支が表示されるともう完璧なのだが、それは干支表をテキストで保存しておけばよい。AndroidOSをお使いの方はぜひお試しを。

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氏政室が小田原で自害したのだという仮説を考えているが、何故彼女はその行為に出たのだろうか。実子は恐らく4人。当時7歳の国王丸(氏直)、6歳(?)の次子国増丸(源五郎)、4歳の氏房、1歳の直重がいた。幼い息子達を遺して命を絶つのは強い要因が必要だろう。

いや、逆に考えれば、息子達のために自死を決行したのではないか。その死の前月、氏真一行が掛川から伊豆に移っている。当時はまだ男子のいなかった氏真は国王丸を養子として駿河を譲る事になっている。そして死の直前に相越同盟が成立。国増丸が上杉輝虎養子として越後に行く事になっていた。

氏真と国王丸については、結局駿河を回復しなかったのと、氏真が後に男子を持った点から名目的な関係の猶子扱いが強調されているが、永禄12年の段階では流動的だったと考える。

主導したのは氏康夫妻だろう。宗哲・氏規と氏邦、綱成、氏光はこの流れに乗ったように見える。氏政、氏照は消極的。氏忠、氏繁は不明だ。

複雑な政治力学を除いてー人の母親としてこの状況を見るならば、実家の裏切りに怒った舅がペナルティを与えているように見えただろう。武田家のエゴイズムの代償をその外孫達に支払わせようと。

外的事情や消極派の動きもあって、4人共に他国へ出される事はなかったが、そちらにシフトした主動力は、その母の、死を伴った抗議によるものかも知れない。

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永禄5年に大徳寺98世の春林宗俶が黄梅庵を営む。この庵が後に「黄梅院」となる。この住持の法名「春林宗俶」と、氏政室の戒名「春林宗芳」が似過ぎている気がしてならない。「宗俶」も「宗芳」も同じ臨済宗大徳寺派なので似るのも当然かも知れないが、だとしても手抜きな戒名だと思う。早雲寺の本山に当たる大徳寺の「黄梅院の春林宗俶」が小田原で知られていなかった筈はない。その上で「黄梅院殿春林宗芳」とするとは、何か変な感覚だ。

武田家の「延命山黄梅院」は親の心情として判り易い。幼い息子を遺して20代半ばで逝った娘を弔うのに、「せめて寺号では長生きさせてやりたい」と長寿を連想させる『黄梅』を入れたのだろう。現代で言う中国原産のオウバイはまだ渡来しておらず、黄梅とは「黄色く熟したウメ」を意味したらしい。

前回までの推論を配慮すると、自害した智栄子は戒名「智栄鳳瑞尼」として武田に戻される。武田家はその菩提を弔うため、「延命山黄梅院」を建立する。戒名自体は変えられなかったか、変えなかった。

その後武田と再同盟なった後北条は、智栄子の位牌を引き取ろうとするが、拒否される。そこで、聞きつけた院号から大徳寺98世に近い戒名を再構築した。

このように流れを作ると、奇妙な部分はすっきりする。無造作な戒名の名付け役は氏政だろうと個人的に思う。

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黄梅院殿を巡る謎には、嫁ぎ先の北条家も関係しているかも知れない。

彼女は永禄12(1569)年6月17日に死去する。死因も場所も不明だ。甲府に出戻ってから病死したかも知れないが、小田原で自刃した可能性もある。後者だった場合、嫁ぎ先の対応に問題があったのだと推測できる。「自刃したので遺骨を引き取れ」とばかりに、骨壺と位牌(そして取ってつけたような戒名)が小田原から送られて来たとしたら……。

実際、長女死去のその6日後、晴信は駿河に陣を進め、僅か10日間で後北条方の富士氏を降伏させる。

同盟破棄の代償として離縁され実家に戻されるのは仕方ない。留まるにしても立場が悪くなるのも致し方ない。それは晴信も三条の方も判っていた事だろう。だが、自害するまで追い詰めるとは思っていなかった。

続いて8月24日、まるで追い立てられるように、晴信は相模攻めに出馬する。今度は苦戦するが、10月1日に小田原を攻めて氏政居館を焼く。撤退中の10月8日にも三増合戦で北条と戦う。甲斐に戻った後も作戦を継続。12月6日に蒲原を落城させ、籠城した主要将官を戦死させる。

この苛烈な死闘が長女の葬い合戦だとすれば、翌年建立の菩提寺を小田原から隠すような立地にしたのも納得できる。

上記の方が、晴信が長女の扱いを非道にしたという仮説よりは真実味がある。しかし、15年連れ添い氏直・源五郎・氏房・直重を成したとされる夫婦に何があったのだろうか。

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黄梅院は甲斐府中東郊にある大泉寺の塔頭である。場所は竜地郷にあったが、現在はごく小さな石塔があるだけだ。扁額には「延命山黄梅院」とあるという。

延命山という言葉には父としての晴信の想いが込められているように感じられる。結果論だが、もう2年生きられたなら、後北条と武田の再同盟によって彼女の人生は大きく変わったに違いない。

一方で、竜地郷という位置は甲府と新府の中間にあり、彼女を小田原から引き離すような感じがする。なるベく西にしたいが、甲府からはすぐ墓詣でできるような位置。それが竜地だったように見える。

しかも、甲相再同盟がなった後も位置を変えなかったのも、「小田原から離したい」という意志を感じる。郡内とまではいかないにしても黒駒か酒折辺りまで移して上げても良かったように思う。

戒名の件と合わせて考えると、1つの仮説が出てくる。

武田晴信は自身が犠牲にした長女の戒名の格を下げ、離縁させられた婚家から遠い地を選んで葬った……。だが、彼女の出産ごとに願文を掲げていた晴信がそのような所業をするだろうか。

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