氏政室が小田原で自害したのだという仮説を考えているが、何故彼女はその行為に出たのだろうか。実子は恐らく4人。当時7歳の国王丸(氏直)、6歳(?)の次子国増丸(源五郎)、4歳の氏房、1歳の直重がいた。幼い息子達を遺して命を絶つのは強い要因が必要だろう。

いや、逆に考えれば、息子達のために自死を決行したのではないか。その死の前月、氏真一行が掛川から伊豆に移っている。当時はまだ男子のいなかった氏真は国王丸を養子として駿河を譲る事になっている。そして死の直前に相越同盟が成立。国増丸が上杉輝虎養子として越後に行く事になっていた。

氏真と国王丸については、結局駿河を回復しなかったのと、氏真が後に男子を持った点から名目的な関係の猶子扱いが強調されているが、永禄12年の段階では流動的だったと考える。

主導したのは氏康夫妻だろう。宗哲・氏規と氏邦、綱成、氏光はこの流れに乗ったように見える。氏政、氏照は消極的。氏忠、氏繁は不明だ。

複雑な政治力学を除いてー人の母親としてこの状況を見るならば、実家の裏切りに怒った舅がペナルティを与えているように見えただろう。武田家のエゴイズムの代償をその外孫達に支払わせようと。

外的事情や消極派の動きもあって、4人共に他国へ出される事はなかったが、そちらにシフトした主動力は、その母の、死を伴った抗議によるものかも知れない。

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