高村

今川氏親室、駿河沢田郷の天白屋敷は今川義忠室の検地で定めた通りだと保証する

[印文「帰」]するかの国さわたのかうのうち、にしふん五とうせんゑもんあいかゝゆるてんはくやしきの事 右、きたかわ殿御とき、けんちあつて御さためのことく、百六十三くわん六百文ねんくいけさういなくなつしよせしめ、ひやくしやう 今川氏親室、駿河沢田郷の天白屋敷は今川義忠室の検地で定めた通りだと保証する

今川氏親室、徳願寺の知行である内谷村長慶寺方の増分について指示する

 義元袖判 たゝしうつたりちやうけいしかたむまのとしよりのそうふん、弐拾俵の事ハ、水のミの弥七郎に、わか身そんしやうの内ハ出し候、のちゝゝの事ハゐんはんのことく一ゑんにしよむあるへし、かしく、 [印文「帰」]天文十八年[ 今川氏親室、徳願寺の知行である内谷村長慶寺方の増分について指示する

武田晴信、高山大和守に、徳一色の落城と清水への移動を伝える

節々音問祝着候、如露先書候徳一色落居、元来堅固之地利ニ候之間、不及普請、本城三枝土佐守二三之曲輪、朝比奈駿河守・同名筑前守在城、去十五日清水之津江移陣築地利、岡部豊前守以下海賊衆差置、今日納馬候、佐久郡衆者其表之備ニ候之 武田晴信、高山大和守に、徳一色の落城と清水への移動を伝える

武田氏、朝倉弥六郎が忠信だったので所領を与えると約束する

向後可抽忠信之旨申候之間、所望之地可被下置候、弥戦功肝要候之者也、仍如件、 永禄十三年[庚午]  土屋右衛門尉奉之 ■月三日 朱印 朝倉弥六郎殿 →戦国遺文 今川氏編2439「武田家朱印状写」(国立国文学研究資料館所蔵紀 武田氏、朝倉弥六郎が忠信だったので所領を与えると約束する