今度鱸日向守逆心之刻、走廻リ日向守楯出寺部城請取処、其上親類・被官就相替、日向守重而令入城処、相戦蒙疵、殊息半弥助・同被官名倉、遂討死罷退候、然者年来別而奉公之筋目令言上候間、於寺部領内百貫文之地、令扶助畢、在所相定之儀者、寺部落着之上可申付、守此旨、弥可抽忠功之状如件、
永禄元年[戊午]四月十二日
治部大輔
松平次郎右衛門殿
→戦国遺文 今川氏編1390「今川義元感状写」(国立公文書館所蔵譜牒余録巻四十二)
次郎右衛門は重吉。
この度鱸日向守が謀叛を起こした際、活躍して日向守が盾を出した寺部を接収したところ、その上親類・被官を交替させることについて日向守を再度入城させたところ、戦闘になり負傷した。特に息子の半弥助とその被官名倉が討ち死にして退きました。ということで年来格別に奉公している筋目を言上しましたので、寺部領内において100貫文の土地を扶助させていただきます。在所を定めることは、寺部が落着した上で申し付けます。この旨を守りますます忠功に励むように。