敬白願状

武田信玄嫡女北条氏政簾中也、今茲秋之仲懐産之幾萌也、依此先暢祝祭矣、持多賀大明神者、攘異之霊社也、就中能済人之命、粤即息女護産出平安而、令授与寿於百歳、則近年献納之外、毎年黄金五両充重可奉納者也、仍祈願之旨如件、

永禄三年[庚申] 七月吉日

 徳栄軒(花押)

奉納多賀大社大明神宝殿

→武田氏研究50号 戦国遺文武田氏編 補遺21「武田信玄願文」(滋賀県・彦根城博物館所蔵西村藤右衛門家文書)

 敬って申す願い状。武田信玄の嫡女は北条氏政の簾中である。いまここに秋の半ば懐妊の兆しがある。これにより祝祭を伸ばす。持多賀大明神は、攘異の霊社である。特に人の命を斉しく能くする。さてそこで、息女出産の平安を護って、百歳の寿命を与えたまえ。であれば近年の献納のほか、毎年黄金5両を加えて奉納するものである。よって祈願の旨このとおりである。

願書

右趣意者、信長公兼日如被仰定、御輿速当方江被入、御入魂至于深重者、即関東八州氏直本意暦然之間、当社建立之事、早速対氏直可令助言者也、仍如件、

天正十年三月廿八日

氏政(花押)

三嶋

 神主殿

→小田原市史 資料編小田原北条2「北条氏政願文」(三嶋大社所蔵)

願書。右の趣旨は、信長公が以前に仰せになった通り、速やかに当方へお輿入れなさって、親密さを深く重ねるに至るならば、それが関八州が氏直の本意となることは明白なので、当社建立のことは、早速氏直に助言することでしょう。

輝虎守筋目不致非分事

一関東江年ゝ成動、致静謐事も、上杉憲政東官領与奪、依之相動及其稼事、

一信州江成行事、第一小笠原・村上・高梨・須田・井上・嶋津、其外信国之諸士〓[穴+牛]道、又者輝虎分国西上州へ武田晴信成妨候、於河中嶋も、手飼之者多数討死候、此所存を以、武田晴信退治之稼、是又非道有之間敷事、

一越中口静謐之事、是者、神保・椎名間之取相様ゝ及意見候得共、無承引候、椎名事、亡父以来申合与云、長尾小四郎養子成之与云、旁以難捨、及加勢事、是又非分無之候、惣別当家之義、従坂東及下知候間、官領意見次第成之候、縦不頼候共、及意見事、輝虎非分有之間敷事、

一以後之事者、如何も候得、於只今者、何之国においても、料所一ヶ所まつハらす候、当座の依〓[りっしんべん+占]有之間敷事、

一輝虎分国において、寺社神領武士之拘置事、依世猥、或輝虎不付意見、或無據存分ニ候間、如斯候、併堂社仏堂之修理建立、寺社神領之事をも、及心通申付候、武田晴信・伊勢氏康退治之上者、如前ゝ弥以涯分可申付候、少にても輝虎於一代改而不致非分事、惣別大小事共、従神慮外者、頼不申候、輝虎不知非道不存候、此上之義者、輝虎所願、弥以成熟所也、仍如件、

永禄七年[甲子]六月廿四日

上杉輝虎(花押)

弥彦

御宝前

→神奈川県史 資料編3「上杉輝虎願文」(弥彦神社文書)

輝虎が筋目を守り非分をしていないこと。一、関東へ連年出撃して平和をなしたことも、上杉憲政の関東管領与奪、これにより出撃して実績を上げたこと。
一、信濃国へ邀撃を行なったこと。第一に小笠原・村上・高梨・須田・井上・嶋津、その他信濃国の諸士浪人、または輝虎の領国西上野国へ武田晴信が妨害を行なったので、川中島においても、子飼いの者が多数討ち死にしました。この所存で、武田晴信を退治するための実績です。これもまた非道ではないこと。
一、越中口の平和をなしたこと。これは、神保・椎名の間の紛争に色々と仲介をしましたが、落とし所がなく、椎名のことは亡父以来申し合わせていることといい、長尾小四郎の養子にしていることといい、どう見ても捨てがたく、援軍しましたこと、これもまた非分ではありません。総じて当家のことは、坂東より下知がありましたので、関東管領の意見次第になりまして、たとえ頼まれなくとも、意見することは輝虎の非分ではないこと。
一、後のことはさておき、現在はどの国においても料所1箇所もねだったりしていません。時々の依怙はありません。
一、輝虎の領国において、寺社神領を武士が保持することは、世を乱すので、あるいは輝虎が意見を付けず、あるいは存分によっていないので、このようにしました。そして堂社仏堂の修理と建立、寺社神領のことをも、心が通って指示しました。武田晴信・伊勢氏康が退治されたならば、前々のようになるよう、ますます、及ぶ限り指示しましょう。改めまして、輝虎の一代において非分を行なわないことは、総じて大小のことでも、神慮以外は頼みません。輝虎が非道を知らずに思うことなく、この上で、輝虎の願いがますます成就するところです。

「謹奉納願書之事」

一 三年之間毎月可奉参詣事

一 万度可申事

   今度駿・豆両国之取合、氏康如存可被為遂本意候、於其上者、右之二ヶ条、急度可奉果行者也、

天文乙巳十月十日

平氏康敬白

奉献 八幡大菩薩 御宝殿下

→鎌倉市史 史料編「北条氏康願文」(鶴岡八幡宮文書)

1545(天文14)年に比定。

 一、三年間毎月参詣を行なうこと。一、何度も申すべきこと。今後、駿河国と伊豆国での取り合いで、氏康が本意を遂げられるようなら、その上は右の2か条を急ぎ執り行なうことだろう。