北条氏、北条氏照に壬生への援軍派遣を指示する
壬生へ加勢衆 廿挺 鉄炮 卅人 弓鑓 合五十人水海衆 右、佐竹向壬生・鹿沼、動火急ニ相催由、注進候、依之手先之衆先加勢遣候条、記右人数、能物主指添、自小山大石信濃寺注進次第、不移時日、小山へ被相移、小山衆同断ニ壬生へ移 …
壬生へ加勢衆 廿挺 鉄炮 卅人 弓鑓 合五十人水海衆 右、佐竹向壬生・鹿沼、動火急ニ相催由、注進候、依之手先之衆先加勢遣候条、記右人数、能物主指添、自小山大石信濃寺注進次第、不移時日、小山へ被相移、小山衆同断ニ壬生へ移 …
去年一乱以前借物之事、就敵筋者、縦雖有只今免許不及返弁、先当年貢急度可弁済物也、若就旧借之儀有入催促使輩者、彼使不及許容、依注進可加下知者也、仍如件、 天文十六 九月二日 山中七郷 其外医王山知行分 →愛知県史 資料編1 …
御牢人之間、江城為御堪忍分、於品川之内、荒地拾貫文も五貫文も、御□用次第、百姓有談合、可被為開候、年貢之事者、上意御本意之間、可進之候、仍如件、 亥 卯月廿七日 (虎朱印) 遠山 奉 土肥中務太輔殿 →小田原市史「後北条 …
崛懸之其方足軽共、拾人之内八人缺落候、為如何一跡をも不尋、無披露、油断ニ候、彼等かつれ之者共ハ、進退之続ハ安キ者ニ候、畢竟其方越度ニ候、早ゝ模様共有糾明、可承候、以上、 朱印在 四月九日 岡谷隼人殿 →戦国遺文 後北 …
一、昨日十一従兵被 仰付候東根小屋之者共、致一同岡谷隼人如下知、一備ニ有之可走廻、すこしなりとも岡谷はやと下知そむくニ付而者、くセことたるへく候、岡谷無用と申ニ付而者、取くひなりとも打捨、備まかりあるへき事、 一、かまり …
「伊波知行之書立」 百九拾壱貫五百文 富田 九拾壱貫六百文 生沢 七拾壱貫文 宮分 四拾九貫六百卅二文 杉崎分 卅九貫百文 千津嶋之内 三浦分 以上四百四拾弐貫八百卅二文 此人数 廿八人 此内六騎馬乗 大学 …
由木上下之強人相談、敵動付而之出合可討留、万乙忠信申者ニハ、随望恩賞可被下、此旨各ニ為申聞、可相稼者也、仍如件、 酉 正月廿一日 横地 奉 小田野源太左衛門尉殿 →-戦国遺文 後北条氏編「北条氏照朱印状写」(静嘉堂本集古 …
中筋へ敵動ニ付而、山中堅固ニ可拘之、此度抽而走廻ニ付而者、随望可被加御褒美、然者侍者中兵粮之事相改、一所ニ集置可申、敵手之及所ニ置申間敷者也、仍如件、 三月八日 篠窪弥太郎 奉 (宛所欠) →戦国遺文 後北条氏編 「北条 …
今日御出陣候、然者来七日如前ゝ、矢盾・馬一疋、好馬を撰、河越ニても、又野陣へ成共承合、御陣着所へ、必ゝ七日ニ引来、太田豊後代可渡之、致無沙汰付者、即令打散、永可被為山野旨、被仰出候、仍如件、 九月五日 平沢 百姓中 → …
就今度三州錯乱、為各雖令逆心、不准自余、於牛窪抽奉公、殊城米令取替、并塩硝鉛百斤城下入置之由、朝比奈摂津守言上、神妙也、然而去年吉田雑説之時分、天慮方へ依令内通、彼城于今堅固之儀、是又忠節也、因茲一所於何方茂、見合可宛行 …