廿二日、癸酉、晴、入夜雨降、(中略)

抑尾州井戸田匂当領事、松波左衛門大夫有申出之旨之間、内々相談長橋之処、可申試之由也、仍今日遺書状、彼在所事等為後日注之、(中略)

雖不思寄子細候、禁裏御料所尾張国井戸田事近年名越御代官之処、没落之後一向無京進候、尤神妙之事候、彼辺に便宜候者、可然之様入魂候者可為別忠候、就中熱田太宮司職も御料所之地候、御代官千秋近年無沙汰過法候、国之儀如何処哉、同被尋捜可被注進候、他事期面候也、謹言、

十月廿二日   判

松波左衛門大夫殿

(中略 今川国氏請文写

井戸田ハ三ヶ所也、井■田・市部・かしわい也、かしわいハ織田弥九郎押領、前二ヶ所当知行也、今川預所也、

→愛知県史 資料編10(実隆公記 永正二年十月二十二日条)

22日。癸酉。晴れ、夜に入り降雨。そもそも尾張国井戸田の匂当内侍領のこと。松波左衛門大夫が申し出た旨もあったので、内々に長橋のところで相談し、試してみようとのことであった。今日書状を遺して、あの在所などのことを後日調べてみることとする。
思いがけない事情があったとはいえ、禁裏御料所である尾張国井戸田のことは、近年名越御代官が没落した後は一切京に納税はありませんでした。最も神妙なことです。あちらに便宜を図る者があれば、しかるべくように昵懇にしてくれれば別の忠義でしょう。とりわけ熱田太宮司職も御料所の地です。御代官千秋は近年無沙汰で法に触れています。国のことはどのようになったのでしょうか。同じく調査して報告して下さい。他のことは会う時を期しましょう。

(三月)

同十八 井ノ口に逗留、長井殿御いせい無申計候、常覚院之御馳走、是又無申計候、城一段見事、

尾張国

同十九 岩倉ニ着、道六里也、

                      宿主 菅 四郎

 近比ミられる者にて候、路次中の物わらいニ仕候、長井殿より岩蔵之小田殿まて人をそへられ候、竹井之人之心へにて二宮方をそへらへ候、小田殿内、山内・前野・高田、両三人へたけを一すしつゝ遣し候、岩蔵より森山まておくられ、それより岩さきまて人を被付候、

同廿日、廿一日、廿二日ニ岩倉ヲ立、

同廿二 岩さきニ着、城下より五丁計行候て、ふし島と申在所へ行道六里、

                      宿主 井舞甚四郎則とい也、

     城主 庭ノ右近と申人、

同廿三 山中ニ付、道八里、岩崎より岡崎まて人をそへられ候、老人にてふしきの者ニて、おひを二すし出し候ヘハ、よくほり候と申、事外■■■ねり候て、代二百文とり候、岩崎の城主福島、するかより被越て被持候、やはきの川、しやうるりの古所見物、松一本有、

同廿四 しらすかニ着、道九里也、

 ひるのやすミ、吉田にて仕候、

(中略)

(四月)

同廿五 山中に着、道九里、宿は竹尾平左衛門、

 三河国内吉田役所、又代物のえりミして、よき代をハ皆々取候由ニて、とられ候、いろゝゝわひ事申候て返し候■、中々難儀にて候、

尾張国

同廿六 ならわニ着、道九里、

                       宿ハならわ十郎兵へ

 山中よりおかさきへこし、まヘハふし島へとおり候へ共、三河・岡崎取相にて、おかさきよりあふらさきへ行き、舟ニ乗候て大はまへ行、又船ニのり候、五十丁計乗、ならわニ着候、

同廿七 なこうニ着、船上九里、

 とこなへという所より、ふねニのり候、雨ふりと申、又かせ共ふき申候、皆々ふねニゑい申候、いまやゝゝと難きにて候つる、

い■国

同廿八 上つけニ着、道八里、

                       宿主 ■■大夫

→愛知県史 資料編10「参詣道中日記」(大村家文書)

1553(天文22)年に比定。

3月18日 美濃国井ノ口に逗留。長井殿のご威勢は表わせないほどでした。常覚院の奔走もまた、言い表せません。城は一段と見事でした。
3月19日 岩倉に到着。行程は6里。宿主は菅四郎。近頃よく見る者で、道中の物笑いになっていました。長井殿より岩倉の織田殿まで案内をつけてくれました。武井の心遣いで二宮さんを添えられました。織田殿の家臣、山内・前野・高田の3名へ竹を1筋ずつ献上しました。岩倉より守山まで送られ、その先の岩崎まで案内人をつけられました。
3月20日、21日を過ごし、22日に岩倉を出立。
3月22日 岩崎に到着。城下より5丁ばかり行って、藤島という在所へは6里。宿主は井舞甚四郎則といいました。城主は丹羽の右近という方。
3月23日 山中に到着。行程8里、岩崎より岡崎まで案内をつけられました。老人ですが不思議な人で、笈を2筋出したところ「よくほり候」と言い、ことのほか(欠字)ねって、代金200文をとりました。岩崎の城主は福島氏、駿河からやってきて城を持っています。矢作の川、浄瑠璃の古所を見物。松が一本あり。
3月24日 白須賀に到着。行程9里。昼の休みは吉田にて行ないました。
(中略)
4月25日 三河国山中に到着。行程9里。宿は竹尾平左衛門。三河国内の吉田役所は、通行税の銭をより分けて、いい銭を全て取ってしまうとのことで、取られました。色々と陳情して返してもらいました。なかなか難儀なことでした。
4月26日 尾張国成岩に到着。行程9里。宿は成岩十郎兵衛。山中より岡崎経由で、往路は藤島を通りましたが、三河・岡崎が紛争地となったので、岡崎から油崎へ行き、舟に乗って大浜へ行き、また船に乗って50丁ばかり乗って成岩に到着しました。
4月27日 長太に到着。船上で9里。常滑という場所から船に乗りました。雨が降り、また風も吹いていて、全員船酔いしていました。到着はまだかまだかと苦しみました。
4月28日 伊勢国上つけに到着。行程8里。宿主は(欠字)大夫。

四日、庚午、入夜小雨、(中略)

尾州水野右衛門大夫任下野守云々、称礼来携太刀、大隅引導也、対面了、

(後略)

五日、辛未、晴、早朝遣太刀於水野許了、(中略)水野送一荷鯉等、不慮芳志也、(後略)

→愛知県史 資料編10「1508(永正5)年部分」(実隆公記)

 4日(庚午)夜に入って小雨。尾張国水野右衛門大夫が下野守に任じられたということで、礼と称して太刀を携えて来た。大隅が案内して対面した。
 5日(辛未)晴れ。早朝に水野の元に太刀を送った。(中略)水野が1荷の鯉などを送ってきた。思いがけぬ芳志である。

1492(明応元)年

北条御所御遷化

 北条御所(堀越公方足利政知)が死去。

1493(明応2)年

駿河国より伊豆へ打入也。

駿河国から伊豆国へ出撃した。

1494(明応3)年

三月十六日合戦ニハ。武田彦八郎殿負玉フ。大蔵大輔打死。同山中殿打死也。此年藤沢道場焼ル。同當麻道場焼ル。

 3月26日の合戦で武田彦八郎殿が負傷なさり、大蔵大輔、山中殿が戦死した。この年藤沢道場(時宗清浄光院)と当麻道場(時宗無量光寺)が焼かれた。

1495(明応4)年

御所嶋へ落玉フ。此年八月伊豆ヨリ伊勢入道甲州打入。鎌山ニ陣ヲ張タレドモ。和談ニ而引反ス。

 御所(足利茶々丸)が島へ落ち延びられた。この年8月に伊豆国から伊勢入道(伊勢宗瑞)が甲斐国へ出撃。鎌山へ陣を張ったが、和睦して引き返した。

1496(明応5)年

北條君武州ヨリ甲州都留郡吉田正覚庵ニ移リ玉ヒテ。富士へ御出。此年。伊勢入道ノ弟弥次郎七月郎等太敷共ニ打死ス。

 北条君(足利茶々丸)が武蔵国から甲斐国都留郡吉田の正覚庵へ移動なさり、富士へお出でになった。この年、伊勢入道の弟弥次郎が7月に多数の郎党と共に戦死した。

1499(明応8)年

此年霜月王流サレテ三嶋ヘ付玉フ也。早雲入道諫テ相州ヘ送賜也。

 この年の11月、王が流されて三島へ到着なさった。早雲入道(伊勢宗瑞)が諌めて相模国へお送りした。

1504(永正元)年

駿河平ニ伊豆ノ国勢向テ伊豆勢負ル也。経木ヲ取テ数ス四万人打死スル也。

 駿河平へ伊豆国の軍勢が向かって、伊豆勢が負けた。経木を取って数えたところ4万人が戦死していた。

同七年戊午八月伊豆ノ御所腹切玉ヘリ。伊勢早雲御敵ニテ。

→戦国史研究27号『堀越公方滅亡の再検討』家永遵嗣

 1498(明応7)戊午年8月、伊豆の御所(足利茶々丸)が切腹された。伊勢早雲(宗瑞)と敵対されて。

1498(明応7)年

1月19日

向東隣、鎌倉姫君将軍御妹、此間今川■■■養也■■近日可御上洛、御京著之儀可為東隣■■ ■■■由聞及之間、罷向相談者也

1月24日

東隣、将軍御連枝姫君、自駿州上洛令留給云云

 1月19日。今川氏に養育されていた将軍(足利義澄)の妹である鎌倉姫君が近日上洛し、東隣に向かうということを聞き及び、赴いて相談する。
 1月24日。将軍の親族である姫君が駿河国から上洛して、東隣に滞在したという。

1507(永正4)年

2月13日

霽、自晩雨降、入夜甚、公兄朝臣明日可下向駿州云々、為暇請予罷向、於女中有杯酌、中納言以下参会

2月14日

晴、(中略)今日三条少将公兄朝臣下駿河、外祖母彼国守護今川母也、路粮料万疋上云々、

5月24日

霽、暁雨甚、玄清来、自駿河金代納之、先以蘇息者也、

 2月13日。みぞれ。晩より雨が降り、夜に入ると激しくなった。三条公兄朝臣が明日駿河国へ下向するだろうという。あらかじめ挨拶に向かい、女中の酌で宴席があり、中納言以下が参会した。
 2月14日。晴れ。(中略)今日三条少将公兄朝臣が駿河国へ下る。外祖母はあの国の守護である今川氏の母。移動費用が1万疋(100貫文)という。
 5月24日。みぞれ。明け方に雨が激しかった。玄清が来る。駿河国の金を代納。まずは息がつけた。

廿九日、甲申、晴、三条亜相ニ申香之筒十五人分書事出来到、并今日太守之和歌会始可来之由俄被申云々、題仙洞鶴多、未下刻三条へ罷向、令同道太守へ罷向、人数三亜、予、太守、瀬名孫十郎、同各和式部少輔、葛山三郎、進藤三川守、木村左衛門大夫、最勝院素経、同子宮菊、斎藤弾正忠、一宮彦三郎等也、此方当座計、沢路隼人佑、一宮出羽守、蒲原右衛門尉等也、読上事瀬名孫十郎、次湯積、次蒸麦吸物等也、及黄昏罷帰了、先之御黒木へ立寄了、今日和歌如此、

詠仙洞鶴多和歌 正二位言継

立与利天聞丹裳千世也仙人農道盤古々良爾真名津類能声

 当座題紅葉浅、隼人代関路雲

あすやいかに青かりし葉も昨日けふ時雨し程を梢にそ見る

もる人も及ハぬきハや清見かたゆるさぬ関をこゆるしら雲

→静岡県史「1557(弘治3)年 正月二十九日」(言継卿記)

 29日甲申、晴れ。三条亜相に言っていた、香木の筒15人分を書き出していたものが到着した。同時に今日、太守(義元)の和歌会始が急遽行なわれることとなったと言われた。題は仙洞鶴多、未下刻(15時頃)に三条宅へ向かい同道して太守邸へ赴く。メンバーは三条亜相と私、太守、瀬名孫十郎・各和式部少輔、葛山三郎、進藤三河守、木村左衛門大夫、最勝院素経・その子宮菊、斎藤弾正忠、一宮彦三郎などであった。こちらは急なことでもあり、沢路隼人佑、一宮出羽守、神原右衛門尉などであった。読み上げは瀬名孫十郎。次いで湯漬け、次いで蒸麦・吸い物などであった。黄昏になって帰った。先の御黒木へ立ち寄った。今日の和歌はこのようであった。(和歌部分略)

十三日、戊辰、天晴、正月中、自大方小袖、織物、袷、浅黄、一重、○賜之、今日之会始ニ可着之由有之、今日之懐紙調之、如此、

詠遐齢如松倭歌  正二位言継

生さきのいつれたかけむ子日せし松の千とせに君か千とせは

次飯尾長門守所ヨリ昨日之礼ニ使同心、にて、又会ニ八時分可罷出之由大原伊豆守申云々、次時分三条亜相へ罷向、大原伊豆守、飯尾若狭守迎ニ来、但被返之、三、予、時衆勝路令同道五郎殿へ罷向、先予ニ各礼申、葛山左衛門佐、富樫次郎、三浦上野介、進藤ゝゝゝ、岡辺太郎左衛門、神原右近、粟屋左衛門尉若州武田内牢人也、朝比奈丹波守等也、次各懐紙置之、次富樫民部少輔被読揚之、次盃出、初献蒸麦、羊〓(食+干)、吸物、ニ献土器物二、ニテ及数盃、相伴衆三、予、五郎、惣持院勝路、富樫次郎、葛山左衛門佐、富樫民部少輔、最勝院、木村左衛門大夫、一宮出羽守、三浦上野介、沢路隼人佑、斎藤佐渡守、粟屋左衛門尉、進藤三川守、岡辺太郎左衛門、神原右近、大原伊豆守、朝比奈丹波守、孝甫、観世十郎大夫、同次郎大夫、同神六等也、猿楽三人音曲有之、申下刻罷帰了、

→静岡県史「1557(弘治3)年 正月十三日」(言継卿記)

 13日戊辰、晴れ。正月中。大方より小袖・織物・袷(浅黄・1重)を賜る。今日の歌会始に着るようにとのこと。今日の懐紙を準備する。(和歌部分略)次いで飯尾長門守のところより昨日の礼に同心を使いに出してきた。使いから聞くには、会へ『八時分』で出立すると大原[小原]伊豆守に告げたという。次の時分に三条亜相宅へ向かう。大原伊豆守と飯尾若狭守が迎えに来た。但しこれは返され、三条亜相と私で、時衆の勝路を同道させて五郎殿[氏真]宅へ向かった。まず各々が私に礼を言う。葛山左衛門佐・富樫次郎・三浦上野介・進藤某・岡辺[岡部]太郎左衛門・神原[蒲原]右近・粟屋左衛門尉(若狭国武田家の牢人である)・朝比奈丹波守たちである。次に各々が懐紙を置き、富樫民部少輔が読み上げを行なう。ついで盃が出され、最初の献立は蒸麦と羊羹、吸い物。二番目の献立は土器物2品で数盃に及ぶ。ご相伴したのは三条亜相と私、五郎、惣持院勝路、富樫次郎、葛山左衛門佐、富樫民部少輔、最勝院、木村左衛門大夫、一宮出羽守、三浦上野介、沢路隼人佑、斎藤佐渡守、粟屋左衛門尉、進藤三河守、岡辺太郎左衛門、神原右近、大原伊豆守、朝比奈丹波守、孝甫、観世十郎大夫・次郎大夫・神六などである。猿楽3人の演奏があった。申下刻(17時頃)に帰った。

梅渡年花 天文十七年戊申義元歌会始、正月十三日、

わきてことし花の台も玉をミかき瑠璃をちりハむ軒の梅かえ

 義元亭新造侍る比間、如此、

→静岡県史「正月十三日」(為和集)

天文二年正月十三日、今河五郎氏輝会始、

 梅花久薫

いくかへり鶯さそふ花のかに十世の宿や万代をへん

 右十代ハ、当今河迄今河家十代也、然間如此よミ侍也、

『今河先祖』

国氏―基氏―範国―範氏―泰範―範政―範忠―義忠―氏親―氏輝

→静岡県史「正月十三日」(為和集)