三条西実隆、禁裏匂当内侍領尾張国井戸田ならびに熱田大宮司千秋氏らの実情についての調査・報告を松波左衛門大夫に依頼
廿二日、癸酉、晴、入夜雨降、(中略) 抑尾州井戸田匂当領事、松波左衛門大夫有申出之旨之間、内々相談長橋之処、可申試之由也、仍今日遺書状、彼在所事等為後日注之、(中略) 雖不思寄子細候、禁裏御料所尾張国井戸田事近年名越御代 …
廿二日、癸酉、晴、入夜雨降、(中略) 抑尾州井戸田匂当領事、松波左衛門大夫有申出之旨之間、内々相談長橋之処、可申試之由也、仍今日遺書状、彼在所事等為後日注之、(中略) 雖不思寄子細候、禁裏御料所尾張国井戸田事近年名越御代 …
(三月) 同十八 井ノ口に逗留、長井殿御いせい無申計候、常覚院之御馳走、是又無申計候、城一段見事、 尾張国 同十九 岩倉ニ着、道六里也、 宿主 菅 四郎 近比ミられる者にて候 …
四日、庚午、入夜小雨、(中略) 尾州水野右衛門大夫任下野守云々、称礼来携太刀、大隅引導也、対面了、 (後略) 五日、辛未、晴、早朝遣太刀於水野許了、(中略)水野送一荷鯉等、不慮芳志也、(後略) →愛知県史 資料編10「1 …
1492(明応元)年 北条御所御遷化 北条御所(堀越公方足利政知)が死去。 1493(明応2)年 駿河国より伊豆へ打入也。 駿河国から伊豆国へ出撃した。 1494(明応3)年 三月十六日合戦ニハ。武田彦八郎殿負玉フ。大 …
同七年戊午八月伊豆ノ御所腹切玉ヘリ。伊勢早雲御敵ニテ。 →戦国史研究27号『堀越公方滅亡の再検討』家永遵嗣 1498(明応7)戊午年8月、伊豆の御所(足利茶々丸)が切腹された。伊勢早雲(宗瑞)と敵対されて。
1498(明応7)年 1月19日 向東隣、鎌倉姫君将軍御妹、此間今川■■■養也■■近日可御上洛、御京著之儀可為東隣■■ ■■■由聞及之間、罷向相談者也 1月24日 東隣、将軍御連枝姫君、自駿州上洛令留給云云 1月19日 …
廿九日、甲申、晴、三条亜相ニ申香之筒十五人分書事出来到、并今日太守之和歌会始可来之由俄被申云々、題仙洞鶴多、未下刻三条へ罷向、令同道太守へ罷向、人数三亜、予、太守、瀬名孫十郎、同各和式部少輔、葛山三郎、進藤三川守、木村左 …
十三日、戊辰、天晴、正月中、自大方小袖、織物、袷、浅黄、一重、○賜之、今日之会始ニ可着之由有之、今日之懐紙調之、如此、 詠遐齢如松倭歌 正二位言継 生さきのいつれたかけむ子日せし松の千とせに君か千とせは 次飯尾長門守所 …
梅渡年花 天文十七年戊申義元歌会始、正月十三日、 わきてことし花の台も玉をミかき瑠璃をちりハむ軒の梅かえ 義元亭新造侍る比間、如此、 →静岡県史「正月十三日」(為和集)
天文二年正月十三日、今河五郎氏輝会始、 梅花久薫 いくかへり鶯さそふ花のかに十世の宿や万代をへん 右十代ハ、当今河迄今河家十代也、然間如此よミ侍也、 『今河先祖』 国氏―基氏―範国―範氏―泰範―範政―範忠―義忠―氏親 …