小田原 1

過日、高野書店で『小田原市史 後北条氏1』を購入するため、10年ぶりに小田原へ行った。さすがに町並みも変わっており、昔日の面影はなかった。そこで、私が知っている1976~86年頃の小田原と比べた所感を残しておこうと思う。

駅舎が三角屋根ではなくなり、大きな駅ビル内には様々な店が立ち並んでいた。それと、東口からだとJRの改札を抜けて地下に潜ってから今度は小田急線の改札があるという、浸水に弱い半地下みたいな駅だった。そして東と西の改札は通り抜け不可だった。それも駅ビル内に吸収され、とても普通の駅になった。急いでいたので気づかなかったが、大雄山線の改札はどこにあるのだろう……。

駅の東口に出ると、空中歩道がある。丸井デパートだった建物はものの見事に雑居ビルになっていたが、その昔『箱根登山デパート』だった『ベルジュ』は看板を掲げて頑張っていた(1階がファーストキッチンだったのは驚き。昔は女性用の洋服屋がマネキンを置いていて華やかだった)。

ネットで廃墟の噂を聞いていた小田原地下街『アミーおだちか』は、本当に地下通路とシャッター街になり果てていた。1980年代には、飲食・アパレルは当然として、ファストフード・レコード店・玩具店・文具店も完備しており、かなりの人出があったと思う。今は薄暗く静かな空間に人影も殆どなく、余りの落差に衝撃を受けた。

タクシー乗り場はそのままだったので、南町の小田原文学館まで移動。市民会館前で国道1号線と合流したが、国際通にも何となく寂れた感がある。映画館の「オリオン座」がなくなっていた。

文学館を軽く見て箱根口まで移動。南町が閑静な住宅街なのは変わらなかったが、1号線沿いの商家は空き地が目立った。建物の老朽化が進んでいるのかも知れない。1号線を渡ると、ものすごく古い本屋がまだやっていて驚いた。戦後すぐに開業したような、民家の間口を開放して本を並べただけの代物である。

後北条時代は大手だったと言われる箱根口の石垣を抜けると、左手に小田原スポーツ会館と御感の藤、これは前と同じ眺め。右手に見慣れない巨大建造物があったが、これは城内小学校と本町小学校が合併してできたものらしい。

昔と変わらぬ藤棚で一休みして、馬出に向かう。これまで常盤木門しか馴染みがなかったせいか、銅門の大きさに一驚。ただ、下見板張りじゃないのが残念なのと、組み上げた石垣の角が切り込みハギ過ぎて違和感があった。古写真を見ても普通の打ち込みハギだと思うが……。この傾向は現在の小田原城のあちこちに見られるが、大震災後に組み直した際にそうなってしまったのかも知れない。

復元された銅門を西から

復元された銅門を西から

その後郷土資料館へ。料金無料(昔は違ったような)。館内はとても古臭い資料館で、子供の頃に社会科見学で訪れた際の印象とのギャップを感じた。それなりに頑張っているのは感じるが、東京からの観光客を迎えるには正直厳しいだろう。

資料館から常盤木門には行かず、本丸脇を抜ける。関東大震災で崩れた本丸石垣が転がっている。この傾斜地には、本丸動物園であぶれた動物が狭い檻に入れられて点々と配置されていたことがある。ヤギやアライグマ、タヌキなどが寂しそうにしていた。動物園がいかに残酷なものであるかを学ばせてくれた場所だ。

道を直進すると遊園地に至る。ここが健在なのは嬉しかった。入ってすぐに豆汽車がお出迎え。左手に券売機があり、その手前に『コーヒーカップ』も健在。こいつを回し過ぎていつも係員に叱責されていたのを思い出した。右手の階段を登った辺りにはアームで上下しながら回転するボートみたいな乗り物があったのだが、既に撤去されていた。

『コーヒーカップ』と呼んでいた遊具

『コーヒーカップ』と呼んでいた遊具

正面を進むと豆汽車ホームと、電動の乗り物(移動はせずにその場で動くタイプ)がある。そして、鉄製の馬が2頭、残されていた。これは、私が幼い頃によく座らされていたものだ。本当は電動に乗りたかったがそう何度も乗れるものではなく、これで気を紛らわせていた。まだ残っていたのかと感慨深かった。

鉄馬君1号

鉄馬君1号

鉄馬君2号

鉄馬君2号

その奥には観覧車跡地への階段。独特の小ぶりな観覧車はもうない。右に折れて踏み切りを渡り、土塁をくり抜いたトンネルを抜ける。左手に、滅多に乗らせてもらえなかった豆自動車のサーキットが現われた。幼いレーサーたちがハンドルを握り締めている。サーキットも小さく、電動自動車が信じられない遅さで動いているのに驚く。

豆汽車と豆自動車
豆汽車と豆自動車
遊園地看板と天守台石垣

遊園地看板と天守台石垣

上の写真で背景にあるのは天守台の石垣だが、よく見ると打ち込みハギというよりは切り込みハギに近い。中途半端なのは、大震災後に近代の技術で組み上げたからかも知れない。

豆汽車の子供たちに手を振りながら、再び踏み切りを渡って左手に折れると本丸に辿り着く。ここまででかなり時間を消費してしまったため、天守はスルーして象舎へ。ここは来年取り壊される前に見ておきたかった。遊園地と同じく、記憶より遥かに小さな建物だった。やはり梅子はいないのだと実感して、象舎を記憶につなぎ止めた。

ちなみに、本丸内にあるゴミ箱に「燃せるゴミ」と書かれていたのを発見。誤植ではなく方言である。「燃やせる=もせる」が小田原周辺の言葉。語尾に「~け?」「~だべ」「~べよ」を付けたり、走ることを「跳ぶ」というのも独特。最大の特徴は、言葉と言葉の間に強調表現として「おめ」を入れる点だ。これは「お前」を約めた言い方で、第二人称を常に挟むことで相手をロックオンさせる狙いがあると考えられる。特に西国の方々からすると、汚い上に絡まれた感じに受け取るらしい。そして今回の小田原行での最大の驚きは、この小田原弁を全く耳にしなくなったことだ。東京生活が長くなるにつれて、小田原に行った際の訛りには敏感になったものだが、全くの標準語ばかりが耳に入ってきた。それだけテレビやネットなどのメディアが強いのだろう。

常盤木門から降りて歴史見聞館に入る。変なマルチメディア展示をするよりも、きちんと古文書や図表を使ったほうが面白いのではないかという実例を見た。昔の観光客用施設に過ぎるのではないか。

なくなってしまった城内小学校跡地を抜け、学端からお堀端へ。左に折れて幸田門に向かうが、その途次、道端の小公園で小田原城天守の古写真を見つけた。

天守台と大久保神社

天守台と大久保神社

天守台と観覧車

天守台と観覧車

解体中→大久保神社が乗っている→観覧車が載っている→復興天守が乗っている

という、歴史ファンからすると小田原市に「昔自分はワルだった」と告白されているように感じられるシュールな風景だった。ただ、小田原はその愛すべきシュールさは失わないでほしいとも思う。

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