先度以状申述候、為其国合力、来十六日諸勢可差越候、田原申合、抽而其動肝要候、例式於無沙汰者不可然候、此方勢衆逗留之内ニ細川ニ一城取立、上野通路無相違候様ニ、調談専一候、此儀就庶幾者、各以近番、加西衆可■相踏候、巨細諸勢相立候時可申越候、為心得先兼日申述候、恐々謹言、

八月五日

氏親 判

奥平八郎左衛門入道殿

→愛知県史 資料編10「今川氏親書状写」(松平奥平家古文書写)

1506(永正3)年に比定。

 前回書面でご説明しましたが、その国が合力をなして、来る16日に諸部隊を派遣します。田原と申し合わせて、ぬきんでて働かれることが肝要です。いつものとおりご無沙汰されるのはよくありません。こちらの軍勢の逗留のため細川に1城を用意して、上野の通路が相違ないように、打ち合わせを進めるのが一番です。このことについて願わくば、それぞれ近番によって加西衆が守備できるようにしていただきたい。事情は諸部隊が配置された時にお伝えします。心得としてまず事前に申し述べておきます。

雖未申入候、以次令啓候、仍関右馬允方事、名字我等一躰ニ候、伊勢国関与申所依在国、関与名乗候、根本従兄弟相分名字ニ候、以左様之儀、只今別而申通候、諸事無御等閑之由、被申候、別而我等忝存候、以後者、関方同前ニ無等閑候可為満足候、次当国田原弾正為合力、氏親被罷立候、拙者罷立候、御近国事候間、違儀候ハゝ、可憑存候、然而今橋要害悉引破、本城至堀岸陣取候、去十九卯刻ニ端城押入乗取候、爰元急度落居候者、重而可申展候、仍太刀一腰作助光金覆輪進候、表祝儀計候、此旨可得御意候、恐々謹言、
九月廿一日
宗瑞(花押)
謹上 小笠原左衛門佐殿 御宿所

→愛知県史 資料編10「伊勢宗瑞書状」(早雲寺文書)

1506(永正3)年に比定。

 まだご挨拶しておりませんでしたが、本状にて申し上げます。関右馬允方のこと。苗字は私と一体で、伊勢国関という所から在国し、関と名乗っています。根元は従兄弟のような苗字ですから、このことをもって現在特別に申し上げている訳です。諸事等閑はないとの仰せです。私も本当にかたじけなく思います。以後は、関方と同じく等閑なくお願いできたら幸いです。次に当国田原弾正が合力した件ですが、氏親が出立されたので私も出てきました。近国のことですから、ご意見あればお願いします。ということで今橋の要害を全て引き破り、本城の堀際に至る堀岸に陣取りました。去る19日卯刻に端城へ押し入って乗っ取りました。こちらは取り急ぎ落城させますので、また重ねてご連絡します。太刀1腰(助光作の金覆輪)を進上します。表祝儀のみです。この旨お心を得られますように。

雖未申通候、以事次一筆令啓上候、仍関右馬允無御等閑之由被申越之間、自早雲以一札被申述候、太刀一腰令進覧候、巨細猶重可申入候間、不能具候、恐惶謹言、

九月廿二日

弾正忠盛泰(花押)

謹上 小笠原左衛門佐殿 御宿所

→愛知県史 資料編10「伊奈盛泰書状」(小笠原文書)

1506(永正3)年に比定。

 いまだご挨拶しておりませんでした。この一筆をもって啓上いたします。関右馬允が等閑ないようにと連絡してきましたので、早雲より書状をもって申し述べられます。太刀1腰を進覧します。状況は更に重ねて申し入れますので、詳しくは申せません。

雖未懸御目、伊勢早雲庵より為使者罷越候、尤御在城迄参、被申付子細、以口上可披露至覚語候処ニ、関方先々此方ニ相留候へ之由、堅被申候間、不能其儀候、仍駿州・頭州申合、田原弾正為合力被罷立候、然間、此度貴殿様別而申合、当国之時儀可然様ニ、御意可請心中ニ被存候、三州本意ニ罷也候ハゝ、乍恐涯分御奉公可仕候之由、色々被申候、関馬尉殿、早雲一家事ニ候間、入道無御等閑被存候ハゝ、関も別儀是有間敷候、猶口上之趣、具ニ関方より可被申候間、委曲可預御報条、筆開候、恐惶謹言、

九月廿七日

大井宗菊(花押)

謹上 小笠原左衛門佐殿 参御宿所

→愛知県史 資料編10「大井宗菊書状」(小笠原文書)

1506(永正3)年に比定。

 いまだにお目にかかっておりませんが、伊勢早雲庵より使者として参上いたします。在城中に参って、詳細を指示し、口頭で報告しようと覚悟を決めていたところ、関方より「まずはこちらに滞在させよ」との厳命があり、そのことは申せませんでした。駿河国・伊豆国が申し合わせて、田原弾正への援軍として出立します。このため、今回貴殿と特別に申し合わせ、当国の時宜に合うようにお考えを承る考えでおりました。三河国の統一がなされれば、恐れながら、精一杯ご奉公いたす由、色々と申しております。関右馬允殿は早雲の家族ですから、入道が等閑のないようにとの考えであれば、関も別儀はないでしょう。更に口頭で、関方より詳細を申し上げますので、詳しくはお知らせに預けることとし、筆を擱きます。

昨日十八申刻、就其方時宜、自関右馬允所注進到来候、横井へ御手遣、千秋万歳目出度存候、何事候共、相当御用、走廻度心底計候、当地事、今明日間可落居候間、自是必令啓候、猶無御心元候間、先以飛脚申候、猶関右馬允方へ申候間、定可被申展候、恐々謹言、

十月十九日

宗瑞(花押)

謹上 小笠原左衛門佐殿 御宿所

→愛知県史 資料編10「伊勢宗瑞書状」(早雲寺文書)

1506(永正3)年に比定。

 昨日18日の申刻、そちらの都合によって関右馬允のところから報告が到着しました。横井への処理、とてもめでたいことです。何事があろうとも、重要な案件で奔走したい気持ちでいっぱいです。こちらは、今日・明日にも落城するでしょうから、こちらから必ずご報告します。さらにお心もとないでしょうから、先ずは飛脚を使ってご連絡します。さらに関右馬允方へ申しますので、きっとご説明があるでしょう。

依無差題目、遥久不能音問候、素意外候、其国如御本意之由候、目出於此方令歓喜候、就中参州儀、田原弾正兄弟数年憑此方候之間、度々成合力来候処、近日敵令同辺候、前代未聞候哉、就其可成一行所存候、毎事無御等閑候者、可為本懐候、何様重而可申述候、委曲之旨、瀬名可令申候、恐々謹言、

 三月十日

  源氏親(花押)

謹上 小笠原左衛門佐殿

→愛知県史 資料編10「今川氏親書状」(小笠原文書)

 さしたる事もなかったので、遥かに久しくご連絡しませんでした。もとより意外なことです。その国がご本意のようになったそうで、めでたく、こちらでも喜んでおります。とりわけ三河国のこと、田原弾正兄弟が数年にわたりこちらを頼ってきたので度々援助をしていたところ、最近になって敵と合流してしまいました。前代未聞のことではないでしょうか。ついてはその一行をなすべき所存です。全てを等閑にすることなく、本会をなすでしょう。どのようなことも重ねて申し述べるでしょう。詳しい旨は瀬名が申し上げます。

於今度三川陣、抽而令粉骨由候、神妙尤感悦候、於向後弥可走廻候段喜悦候、猶朝比奈弥三郎可申聞候、恐々謹言、

十一月十六日

氏親(花押)

伊達蔵人丞殿

→愛知県史 資料編10「今川氏親感状」(駿河伊達家文書)

1508(永正5)年に比定。

 この度の三河国出陣で、ぬきんでた活躍をしてくれたとのこと。神妙でとても感悦しました。今後においてもますます奔走していただけると幸甚です。さらに朝比奈弥三郎がご説明するでしょう。

今度於参州十月十九日合戦、当手小勢ニ候処、預御合力候、祝着ニ候、御粉骨無比類之段、屋形様江申入候、猶自朝比奈弥三郎方可有伝聞候、恐々謹言、

十一月十一日

宗瑞(花押)

謹上 伊達蔵人佑殿

→愛知県史 資料編10「伊勢宗瑞書状」(駿河伊達家文書)

1508(永正5)年に比定。

 この度10月19日に三河国で合戦し、こちらが小勢であったところ、合力をいただきまして祝着です。ご活躍は比類がないもので、屋形様へ報告しました。さらに朝比奈弥三郎よりご連絡がいくでしょう。

今度於参州十月十九日合戦、当手小勢ニ候之処、預御合力候、令祝着候、御粉骨無比類之段、屋形様江申入候、猶自朝比奈弥三郎方可在伝聞候、恐々謹言、

十一月十一日

宗瑞(花押)

巨海越中守殿

→愛知県史 資料編10「伊勢宗瑞書状写」(古案 氏康)

1508(永正5)年に比定。

 この度10月19日に三河国で合戦し、こちらが小勢であったところ、合力をいただきまして祝着です。ご活躍は比類がなく、屋形様へ報告しました。さらに朝比奈弥三郎からお伝えするでしょう。

七日、陰、晩小雨、道賢以使云、遠江合戦落居、大河内父子切腹、今河帰国之由聞及云々、

→静岡県史 資料編7「1517(永正14)年9月7日の項目」(宣胤卿記)

 7日、陰、晩に小雨、堀川道賢が使いを出して「遠江国合戦で決着がつき、大河内父子が切腹、今川が帰国したと聞いた」と言ってきた。