岩付諸奉行、但今度之陣一廻之定
小旗奉行 中筑後守
立川藤左衛門尉
潮田内匠助
已上
右、何時も打立之貝立を傍尓ニ、小旗悉可相集、於押前物いわせす、いかにも入精可押、小旗敷定百廿余本可有之間、改而不足之所をハ、何時も可申上候、 已上
鑓奉行 福嶋四郎右衛門尉
豊田周防守
立川式部丞
春日與兵衛
已上
右、鑓奉行申付候、六百余本可有之間、能ゝ相改、不足之所をハ、無用捨可披露候、鑓奉行大事之役ニ候、もミあふ時、押前ニてならさる様ニ、入精可致之候、何時も小旗之集同前、鑓をも可集、
已上
鉄炮奉行 河口四郎左衛門尉
真野平太
已上
右、岩付鉄炮衆五十余挺可有之間、相改、毎度之備ニ不足之所をハ書立、無用捨可令披露、兼日簡をこしらゑ尤候、無嗜ニてさび、引金以下損かつきたる一理迄之躰、以之外曲事候、能ゝ可入精者也、
已上
弓奉行 尾崎飛弾守
高麗大炊助
已上
右、四十余張弓衆可有之、能ゝ相改、厳密ニ可仕置、馬上ニ候共、射手衆をハ一所へ集可押候、能ゝ可入精、不足之所をハ相改、無思慮可披露、
已上
歩者奉行 山田弥六郎
川目大学
嶋村若狭守
已上
右、貮百五拾余人之歩者相改、毎度致一枚可押、歩者共物いわせへからす、能ゝ可致仕置、
已上
馬上奉行 渋江式部太輔
太田右衛門佐
春日左衛門
宮城四郎兵衛
小田掃部助
細谷刑部左衛門尉
已上
右、五百余騎之馬上、能ゝ相改、備之模様可然様ニ被入精肝要候、猶馬上之押様専一候、五百余騎之内、不足之者相改、不及思慮、可有披露者也、
已上
歩者廿人之奉行 馬場源十郎
已上
以上
右、備之諸奉行、先此度者、大方如此定置候、何も不知案内ニ候間、可有相違候、如何様帰陣之上、心静遂糾明、重而之出張ニハ、入手而可定置候、仍如件、
此外
陣庭奉行 春日左衛門尉
宮城四郎兵衛
細谷刑部左衛門尉
福嶋四郎右衛門尉
已上
右、陣庭之取様肝要候、大方陸奥守陣取之模様ニ可取、猶様子ハ、自前ゝ致来様肝要候、太田暮之内ニハ、中間共廿人之歩先、為陣取尤候歟、各可相談候、
已上
篝火奉行
一夜 春日左衛門尉
細谷刑部左衛門尉
立川藤左衛門尉
已上
一夜 宮城四郎兵衛
福嶋四郎右衛門尉
立川式部丞
已上
右、先日如申出、前ニ一ヶ所、陣之後ニ一ヶ所、大キサハ本ニたくことく、夜一夜不消様ニ、当番之者侍を三人ツゝ、二ヶ所ニ然與可付置、かゝり木ハ、先日被仰出候三千貫役致衆、二ヶ所を半分ツゝ請取、尤候、
已上
小荷駄奉行
一番 春日左衛門尉
福嶋四郎右衛門尉
立川式部丞
已上
二番 宮城四郎兵衛
細谷刑部左衛門尉
中筑後守
已上
右、隔番ニ小荷駄可申付、模様ハ何時も手札ニ可顕之、可為如其、
一尺木者、一騎合迄悉出合可結、此改
太田右衛門佐
春日左衛門尉
細谷刑部左衛門尉
福嶋四郎右衛門尉
宮城四郎兵衛
已上
右、定置所如件、
丁丑(1577(天正5)年)
七月十三日
→神奈川県史「北条家諸奉行定書」(豊島宮城文書)