去々年信州江富士下方之人数為甲州之合力差遣之処、就井出甚右衛門尉煩、一宮出羽守仁相断令帰陣、彼煩終不平癒令死去之上、廣瀬三右衛門尉并土橋彦三郎為訴人構虚病致帰陣之旨訴出之条、双方遂裁断之処、一宮出羽守為証文之間尋之令糾明之上、相煩旨無紛由返答、殊依其煩令死去之条、甚右衛門遺跡所付道理也、然者知行之事者遺跡千代寿仁永無相違領掌了、若重於及其沙汰者、任通法可加下知、社役之事者如年来名代可勤之旨也、仍如件、

弘治三年

六月廿二日

治部大輔(花押)

井出惣左衛門尉殿

→武相史料叢書. 第2-3 (諸州文書)

 一昨年、甲斐国の援軍として、富士下方郡の部隊が信濃国に派遣された。その折、井出甚右衛門尉が発病した。一宮出羽守に報告して帰還し、彼は回復することなく死去した後で、廣瀬三右衛門尉と土橋彦三郎が「仮病を使って帰還した」という訴えを出した。双方の言い分を裁断しようと、一宮出羽守に証文をなした上でこれを尋ねて糾明したところ「彼は本当に病気だった」と返答してきた。特にこの病気で死去したことから、甚右衛門の遺産は道理に従うところである。であるから知行のことは遺産を千代寿に末永く相続させるものとする。もし重ねて訴える者があれば、法に基づいて指示するように。神社への役割は今まで通り勤めなさい。

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