コンテンツにスキップ

織田信長、大森平衛門尉に当所と守山間の自由通行を保障する

智多郡并篠島商人当所守山往反事、国質・郷質・所質并前々喧嘩、或如何様之雖有宿意之儀、不可違乱候、然者不可致敵味方者也、仍状如件、

天文廿壱

信長(花押)

大森平右衛門尉殿

→愛知県史 資料編10「織田信長判物写」(古今消息集 四)

 知多郡と篠島の商人が当所と守山の間を往復のこと。『国質』・『郷質』・『所質』、並びに前々の喧嘩、その他どのような恨みがあるとしても、妨げてはならない。ということで、事を構えないように。

コメント 5

  • 『弘前大学教育学部紀要 第89号「智多郡・篠島商人宛て自由通行令」』(安野眞幸氏)を参考にして以下の解釈を当初エントリーしていた。私見として残しておく。
     知多郡と篠島の商人が清洲と守山の間を往復するに当たって、人質や前々の喧嘩、その他どのような恨みがあるとしても、騒動を起こさないこと。それを受諾するなら、政治的な理由で敵味方分けることはしない。

  • コメントを付けられると『弘前大学教育学部紀要』の恥の上塗りになりますので、
    国質・郷質・所質などには全て意味がありますから、歴史事典などで調べてから訳されたらいかですか。

  •  コメントありがとうございます。原文の読みの幅からいって当初解釈でも妥当性はありますので、特に「恥」ではないかと思います。
     「不可致敵味方」の類例がないので、暫定で解釈を変更したまでなので。「質」については負債に基づく差し押さえと考えて問題ないと思いますが、念のため原文ままとしました。何か情報ありましたらお知らせ下さい。

  • 高村様、今般水野氏史研究会ブログに貴記事をトラックバック下さいましたので、早速参上致しました。弘前大学の安野眞幸教授とは、四年程前に「水野太郎左衛門」の研究の折、手紙の遣り取りをさせていただきましたので、とても懐かしく思いました。さて小生は織豊期研究会で、各大学教授、院生、学芸員等の方々と輪読会に参加させていただいておりますが、古文書の解釈の仕方については、毎回異論が出ることが多く、これが正解というものは無いようです。つまり「現時点ではこのような解釈にしておきましょう」となるのでして、後日また新たな見解が示されることもありますので、その伸展が楽しみでもあります。拙ブログでも高村さんのように、当初の記事に後日判明したことをその修正年月日を記して追記しております。これは研究の過程を読者の方々と共有することも重要な研究の一つと考えているからです。これからも貴サイトの記事を参考にさせていただきますのでよろしくお願いいたします。

  •  コメントありがとうございます。
     ここ10年ほどでようやく1次史料の書面化が各自治体史で出揃い始めた段階ですから、解釈はこれからでしょう。異論や疑念は勿論出てくると思いますので、お気軽にご指摘下さい。
     「致敵味方」については、他の織田信長文書で「敵であっても通行させよ」「敵味方問わず預かり物は保護せよ」というものがありますので、当初の解釈「敵味方を分けることはしない」という解釈も妥当性はあると思われます。
     解釈に未熟な部分も多数あり、また単純な勘違いもあることから、随時修正は行なっています。但し、ご指摘のように意見の交換は重要だと考えておりますので、他のサイトで言及された修正はコメントに残すようにしています。貴サイトで言及された折には、お手数ですがトラックバックにてお知らせいただけますと助かります。
     これからも宜しくお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です