一 竪文 夕庵筆ノ写 一字モ不違八行也、
嶋田かたへ御状令拝閲候、よって網懸之鶻(たか)被懸御意候、寔以畏悦之至候、殊先日も兄弟鶻給候、雖申尽候、尚以当年自何方無到来候之処、及度々如此之儀奇特存候、旁従是可令申候条、不能巨細候、恐々謹言、
九月十五日
水野藤九郎殿
御宿所
信長
→織田信長文書の研究 「尾張水野藤九郎宛書状写」
嶋田のところへ出した書状を読みました。ですから、鷹を網に懸けて得られたことを知り、喜んでいます。ことに先日も兄弟鷹をいただいたことは、申しつくせないほどです。今年になってどこからも贈り物がなかったのですが、あなたは何度もくれて奇特なことです。そのようなことを申し上げたいのですが、どのように伝えたらよいか見当もつきません。
4件のコメント
三河物語を読みましたか??????????
永禄元年の前に、水野藤九郎は、伊賀の忍びの奇襲で落城、討ち死に。
刈谷城は、今川方になっています。
水野藤九郎の子が、下野殿とありますが?
あと、刈谷市史はデタラメなので信用しないように。
刈谷古城なんてのは、存在しませんから。
『三河物語』は大久保忠教の著述だと記憶しておりますが、大久保忠教は1560(永禄3)年の生年ですから、同時代の史料には当たらないでしょう。写しではあるものの、本書状のほうが史実に近いという考えでおりますが、如何でしょうか。
その他書状や判物で確証があれば1558(永禄元)年以前に刈谷城が今川方であったと判断できると思います。史料のご教示をお願いできればと思います。
『刈谷市史』の記述が妥当かどうかは、良質な史料に基づいて判断したいと思います。ご例示いただいている史料は全て近世のものですから、何とも判断しようがない状態です。繰り返しになりますが、同時代史料のご教示をお願いします。