下記にまとめた数字は、戦国遺文今川氏編からカウントしたもの。宛先、もしくは言及されている地名から国ごとに割り振った。国の名前が判らない場合は「その他」に分類した。

留意点を箇条書きで記しておく。

尾張国宛については、1542(天文11)年を初見とし、1557(弘治3)~1560(永禄3)年に集中している。

三河国宛は、東三河・西三河で分けるべきだったが今回は行なっていない。1546(天文15)年から増え続けているが、1553(天文22)年・1559(永禄2)年が1桁に落ち込んでいる。

駿河・遠江の2国は三河より数が少ないものの安定して出されている。どちらかというと駿河の方が多目に出ている。1551(天文20)~1552(天文21)年と、1560(永禄3)年は突然多くなっている。これは戦争による所領変更が要因かと思われる。

今川義元・氏真書状分布
駿河 遠江 三河 尾張 その他
天文5年 20 7 0 0 1 28
天文6年 3 3 0 0 1 7
天文7年 4 2 0 0 0 6
天文8年 9 8 0 0 0 17
天文9年 2 9 0 0 1 12
天文10年 1 7 0 0 1 9
天文11年 11 7 0 1 0 19
天文12年 9 8 0 0 3 20
天文13年 12 5 0 0 1 18
天文14年 7 1 0 0 0 8
天文15年 2 0 2 0 1 5
天文16年 2 4 9 0 0 15
天文17年 6 1 8 0 0 15
天文18年 7 1 13 0 1 22
天文19年 8 6 16 0 0 30
天文20年 20 5 12 0 3 40
天文21年 19 10 10 0 1 40
天文22年 8 2 7 0 6 23
天文23年 5 3 14 0 1 23
弘治1年 7 3 10 0 1 21
弘治2年 10 3 28 0 4 45
弘治3年 11 6 16 1 2 36
永禄1年 11 4 17 4 1 37
永禄2年 10 7 3 3 2 25
永禄3年 31 26 22 0 6 85
永禄4年 29 19 41 0 7 96
永禄5年 14 13 38 0 1 66
永禄6年 10 15 18 0 1 44
永禄7年 6 24 2 0 2 34
永禄8年 14 10 2 0 1 27
永禄9年 10 16 0 0 0 26
永禄10年 5 17 0 0 6 28
永禄11年 10 10 0 0 2 22
333 262 288 9 57 949

今川家文書発行分布

imagawa_monjo1

 孫次より状当来候へ共、■■寺御書■■■■■不申候之由、得意頼入候、存盛義故候、

帰国已来無覚束過行候之処ニ、使僧太儀ニ被越候、其許様躰承候而、満足之至候、  一、城主遠行驚入候、最以急度人をも進度候へ共、時分柄之義候間、所詮当便の沙汰無用にて候、不知の相を可示覚悟にて候、痛撃候て、及一念廻向候、   一、其国其許大洪水之由、何より以、抛筆題目候、寺内つまる彼と云此と云、令推察之候、   一、稲生妙本寺も堤切候て、寺地只今ハ成大河候、箸程木きれも不残之由、慥なる処礼説を以承候、于今出家一人も門徒之出入ハ無之候、駿河・遠江・三州已上六万計にて弾正忠へ向寄来候へ共、国堺に相支候て、于今那古野近辺迄も人数ハ不見之由候、果而如何ゝゝ   一、らつそく承悦之至候、当年ハ度々及候間心安燃候、 一、着陣の事承候、近にて候、其寺ニ一連も無之事不審千万之至候、

一、当国も何哉らん内々雑説不相休候間、定而到来陽者、可及鉾楯候哉、  一、当寺少納言殿能州(異筆)〇[許]詔相叶候て、九月始比ニ迎船来、愚老も大義候て仕立候て、則御尾形江出仕、親父本地之内百計之所被賜候て、勤持も覚子も大慶、及来春者、寺建立之企相半ニ候処ニ、能登国二ニ破候て、屋形をハ子城ヘ逐のほせ、遊佐・温井大将を仕候て、七頭して取留、只今及大乱候、彼少納ハ何手ヘ被成候も未相聞候、陸地ハ寺嶋と倉河を取合にて、鳥も不通候、水路ハ時分柄之義にて候間、使節■覆不涯候、[紙継目]■存を遣ヘ共、半途より還候、旦方より飛脚被越候、四五日も過候者、いかなり共可来候哉、    一、タキスギ一束、雑紙一束進之候、せめてのほせ音信にて候、  一、聖■事、得意候、只今難見出候、其上入物多ハ山中へ越置候間、如何ゝゝ、  一、我々ハ無病の分にて候、近日より及撰地子細候、及老期烏呼敷企、旦ハはかなきも、旦ハ厳志の所元せめての興行にて候、  一、当地凶害自然の対治為当寺元品無明伏断之様にも候ヘハ、向後九牛の一毛程も心安辺ハ、是有間敷候哉、愚推如此、但如何ゝゝ、彼老考ハいま一入貴所江之心入も、可有之歟と、これにてあてかひ申へく候、恐々謹言、

十月十九日

 菩提 日覚(花押)

[異筆]「天文十九年十月廿七日帰着」

本成寺 菩提心院

→戦国遺文 今川氏編975「菩提心院日覚書状」(新潟県三条市西本成寺・本成寺文書)

 孫次より書状が来ましたが、■■寺の御書■■■■■申されなかったとのこと、ご了解いただいてお願いします。『盛義』を知っているからです。

 帰国以来覚束なく過ごしていたところに、使僧がわざわざお越しになりました。そちらの様子を承りまして、満足の至りです。一、城主の死去は驚きました。可能な限り急いで誰かを遣わしたいところですが、時分柄ということもあり、結局『当便』の沙汰は無用です。知らぬ顔を貫く覚悟です。痛撃して、一念に及び廻向します。一、その国では大洪水とのこと。何よりも筆を放り出す題目です。寺内の困難、あれといいこれといい、お察しします。一、稲生妙本寺も堤が切れまして、現在の寺地は大河になっています。箸ほどの木切れも残らなかったそうです。確実なところから礼説を聞きました。今は出家一人たりとも門徒の出入りはありません。駿河・遠江・三河から約6万ほどで織田弾正忠へ向かって寄せ来たりましたが、国境で防戦して、今は那古野近辺でも部隊は見えないとのことです。果たしてどうなのでしょう。一、蝋燭をいただき喜びの限りです。当年は度々いただいているので心安く燃やせます。一、着陣の事は承りました。近くです。その寺に『一連』もないことは不審千万の至りです。
一、当国もどこかからの内々の雑説で休まることもありませんから、きっと日をおかずに、紛争には及ぶでしょう。一、当寺は少納言殿の能州での訴訟がかなって、9月初め頃に迎えの船が来ます。私めも骨を折ったと謝礼をご用意いただきましたので、お屋形へ出仕し、父の本地のうち100ばかりの所を賜りまして、『勤持』も『覚子』も大慶です。来たる春には、寺を建立する計画が半分進んでいたところに、『能登国二』に敗戦して、屋形は『子城』ヘ追いやられ、遊佐・温井を大将にして、『七頭』して取り留め、現在は大乱に及んでいます。あの少納言はどこへ行かれたのかも聞いていません。陸地では寺嶋と倉河を争奪しており、鳥も通いません。水路では季節柄のことですから、使いは通行できません。『■存』を送っても途中で帰ってきてしまいます。『旦方』より飛脚を送られたので、4~5日も過ぎればどうあっても来そうですが。一、『タキスギ』1束、雑紙1束を進呈します。せめてもの音信です。一、『聖■』のことは心得ました。現在は見出しがたく、その上『入物』の多くは山中へ送り置いていますので、どうでしょうか。一、私たちは病もありません。近日から撰地に及ぶ状況です。老期に及んでおこがましい企て。はかないものであっても、厳志の心持ちでせめてもの興行です。一、当地の凶害、自然の対治、当寺の元品となして無明・伏断のようでもありますので、今後は九牛の一毛ほども心安くあれば、これはあるまじきことでしょうか。私はこのように推しますが、ただいかがでしょう。あの老考はいま殊更に貴所へ心入りもあるのだろうかと、これにて当てにするとしましょう。

就今度不慮之儀、当城相移之処、泰朝同前、不準自余令馳走之段忠節也、然者本地之儀者不及是非、急度可加扶助之旨、備中方へ以自筆雖申付之、弥不可有相違、猶於走廻者、別而可令扶助候、謹言、

巳 十二月十八日

 氏真判

興津摂津守殿

→戦国遺文 今川氏編2434「今川氏真感状写」(諸家文書纂所収興津文書)

永禄12年に比定。

 今後不慮のことで当城へ移ったところ、泰朝同前に、他に準じないほどの奔走をしたことは忠節である。そこで本知行のことは言うに及ばず、取り急ぎ扶助を加える旨を、備中守へ自筆で申し付けたのだが、ますます相違があってはならない。さらに活躍したら、別に扶助するでしょう。