(別筆)
「謙信公御願書」

輝虎守筋目不致非分事

一関東江年ゝ成動、静謐稼之事茂、上杉憲当東官領与奪、依之相動及挊事、

一信州江成行事、一者小笠原・村上・高梨・須田・井上・嶋津、其外信国之諸士〓[穴+牛]浪、又者輝虎分国西上州江武田晴信成妨候、又於河中嶋、手替之者多数為討死候、此所存を以、武田晴信退治之挊、非道ニ不可有之事、

一越中江行之事者、神宗衛門尉・椎谷右衛門大夫間之弓矢取結候間、様ゝ雖及意見、無承引候、依之、椎谷亡父以来申合云、又者長尾小四郎養子成候云、旁難捨、及挊候、是又非分ニ無之候、惣別当家従坂東及下知候間、官領意見次第成之候、縦不頼候共、及意見義非分ニ有之間敷事、

一以後之事者、如何候得、於只今者、何国ニも、料所一ヶ所もまつハらす候間、当座之依怙、非分ニ有之間敷事、

一輝虎於分国寺社神領武士之拘置事、世乱かハ敷により、或者輝虎不付意見、或無據存分ニ候間、如斯候、併堂社仏堂之修理建立、寺社神領之事をも及心通、少つゝも申付候、武田晴信・伊勢氏康退治之上者、如前ゝ、弥涯分ニ可申付候、少にても輝虎於一代、あらためて非分不致事、惣別大小事共、神慮より外者頼不申候、輝虎不知非分者不存候、此上之儀者、輝虎諸願成就処也、如件、

永禄八年六月廿四日

[御判ニ丸御朱印有之]

上杉輝虎(花押)

愛宕

 御宝前

→神奈川県史 資料編3「上杉輝虎願文写」(歴代古案十)

 輝虎が筋目を守り非分をしていないこと。一、関東へ連年出撃して平和をなしたことも、上杉憲当の関東管領与奪、これにより出撃して実績を上げたこと。
 一、信濃国へ邀撃を行なったこと。第一に小笠原・村上・高梨・須田・井上・嶋津、その他信濃国の諸士浪人し、または輝虎の領国西上野国へ武田晴信が妨害を行なったので、川中島においても、子飼いの者が多数討ち死にしました。この所存で、武田晴信を退治するための実績です。非道ではないこと。
一、越中口へ邀撃をなしたこと。神宗衛門尉・椎谷右衛門大夫の間で紛争していたので、色々と意見に及んだのですが、落とし所がなく、椎谷のことは亡父以来申し合わせていることといい、または長尾小四郎の養子にしていることといい、どう見ても捨てがたく、援軍しましたこと、これもまた非分ではありません。総じて当家のことは、坂東より下知がありましたので、関東管領の意見次第になりまして、たとえ頼まれなくとも、意見することは非分ではないこと。
一、後のことはさておき、現在はどの国においても料所1箇所もねだったりしていません。時々の依怙、非分はありません。
一、輝虎の領国において、寺社神領を武士が保持することは、世を乱すので、あるいは輝虎が意見を付けず、あるいは存分によっていないので、このようにしました。そして堂社仏堂の修理と建立、寺社神領のことをも、心通に及び、少しずつでも指示しています。武田晴信・伊勢氏康が退治されたならば、前々のようになるよう、ますます、及ぶ限り指示しましょう。改めまして、輝虎の一代において非分を行なわないことは、総じて大小のことでも、神慮以外は頼みません。輝虎が非道を知らずに思うことなく、この上は輝虎の諸願が成就するところです。

以下が基本図形となる。濃い紫が市街、薄い紫が大型構造物。緑は丘陵地を指す。鳴海原を相原郷と想定した場合、鳴海・相原で最高所となる大形山が義元本陣となるだろう。

鳴海の米軍空撮写真を元に図案化

鳴海の米軍空撮写真を元に図案化

永禄記に予想される街道を書き加えた。相原郷からまっすぐ北上して古鳴海に向かう道、鳴海の砦を経由して古鳴海に至る道はどちらも鎌倉街道のバリエーション。その一方で、有松から鳴海を経て北上する東海道も発達して来ていると想定される。でなければ、鳴海が合戦の争点となることはないからだ。砦には円龍寺・浄泉寺が存在。瑞泉寺の北には駿河衆の駐屯地があったという。

鎌倉街道と東海道、新海池排水路の想定を付加

鎌倉街道と東海道、新海池排水路の想定を付加

1560(永禄3)年以後の想定図。円龍寺・浄泉寺は兵火のため砦から現在地に移転している。また、激戦地と思われる場所に光泉坊が編まれる。

光泉坊、円龍寺、浄泉寺の付加

光泉坊、円龍寺、浄泉寺の付加

下図は近世中期からのもの。光泉坊が相原郷に移って浄蓮寺となり、変わって同地に相原町が出来る。このことは、鳴海・相原で何らかの取り引きがあったことを窺わせる。

相原町、浄蓮寺の付加

相原町、浄蓮寺の付加