中津に関するエントリを上げた矢先の10月4日、7月より模索されていた売却先が埼玉の法人に決定した。先年ようやく成瀬家から公のものになった犬山城と同じく、中津城も奥平家所有だったそうだ。中津市と交渉していたが1億5,000万円の売却金額・事前耐震検査の是非を巡って決裂し、インターネットを経由して売却先を探していた。今回の売却金額は5,000万円。安いと見るか高いと見るか。

売却益で天守の直下にある奥平神社の修繕をするそうだが、確かに雑草が生えかかって大変そうだった。本丸にはこのほかに城井神社・中津大神宮・金比羅神社などが林立する。過疎化が進む中で、神社の結婚式も減り観光客も減ったのだという情報がネット上にあった。

その一方で、今川義元に大高兵粮入れでの戦闘を称えられていた奥平定勝の子孫が、よくぞここまで城を保ったという感慨もある。成瀬・奥平ともに21世紀まで城を守り奥三河国人の面目を施したと言えるだろう。

NHK大河ドラマの影響からか、坂本竜馬を中心とした幕末書籍やテレビ番組が多い。歴史に興味を持つ人が増えるのは嬉しいことだと思う。

ところが個人的には、幕末の思想背景は模糊としており、すっきりしなかったので馴染みがない。曖昧な割に、通史では「尊皇攘夷」「公武合体」「開国論」「征韓論」などなど、イデオローグで人々が行動したように描かれる(「勝てば官軍負ければ賊軍」は維新後の言葉らしいが)。特に攘夷は判りづらい。水戸藩・萩(山口)藩が突出した攘夷原理主義のようではあるが、孝明天皇のそれとどう違うのか。

『攘夷の幕末史』(講談社現代新書・町田明広著)を読んだところ、尊皇攘夷VS公武合体の対立構造がおかしいのではないか、という指摘があり幕末への視野が少し開けた感があった。尊皇と攘夷は別物であり、当時の日本では殆どの人間が尊皇と攘夷を掲げていたという。但し、勅命を最優先する直接尊皇と、陪臣であることから台命(大政委任による幕府経由の勅命)を優先する間接尊皇が存在したとのこと。

攘夷の方は古来より存在する「朝鮮を日本の朝貢国にして天皇制を確立したい」という願望と連動しており、「とりあえず外国を追い払ってから侵略」派(小攘夷)と、「とりあえず開国して戦備を備えてから侵略」派(大攘夷)に分かれていた。

何れにせよ攘夷は侵略概念であり、当時の日本では海外侵略を行なうことは国是として認識されていた。一見弱腰外交に見える幕府要人も征韓論を意識していたし、勝海舟・坂本竜馬も侵略を前提に開国を語っている。

東アジアの華夷秩序内で「天皇」という小皇帝を内包した段階から、自分たちへの朝貢国探しが始まり、三韓征伐伝説・羽柴氏の朝鮮出兵・日清戦争・日露戦争を経て太平洋戦争まで突き進んだ侵略概念が、攘夷なのだという(琉球・朝鮮通信使もこの文脈に合致する)。

これはとても腑に落ちる意見だ。日清戦争以降の戦いについて「西欧列強が植民地政策を進めたため日本も追随した」という言説をよく聞くが、「元からあった攘夷(侵略)概念が近世猛烈に増幅され、列強の施策に便乗する形で発露した」と考えたほうが、幕末になぜ攘夷という言葉がしきりと使われたのか判然とする。

個人的には、攘夷はイデオローグだけでなく、貿易と外貨兌換率を巡る経済主張でもあったと思うのだが、この辺りは金本位制を巡る経済論になるので改めて考察してみたい。

ちなみに、過日中津を訪れる機会があったが、この地方では幕末期、蘭癖大名として著名だった奥平昌高の意を受け、医学を中心として様々な活動をしていた。そういった事柄は全て郷土史でしかなく、ただ福沢諭吉の出生地としてのみ語られている印象がある。

単に私がこの時代について無知過ぎるのかも知れないが、特定の英雄だけが突出して掘り下げられる傾向は厳然として存在しているように思う。

ただ、その状況はインターネットによる情報発信で大きく改善される可能性があると信じている。これまで発信手段のなかった郷土史家が、ネット上で様々な人物を紹介してつなげていくという作業も可能ではないかと。その過程で激しい議論もあるだろうし、拒否される意見も出るとは思うが、通り一遍だった歴史が、地域ごとに多元性を持つ好機でもあるだろう。

(堅切紙)

新城へ早ゝ罷越、能ゝ致普請、○[積]四百人五日御普請之分をハ惣並候間、肝要候所ゝを当番衆可成之由、遠山左衛門・福島丹波ニ可申断、又残分いか程と渡方と両様を書立可越、已上、

八月十八日

氏政(花押)

岡本越前守殿

→「北条氏政判物」(吉田文書)

1582(天正10)年に比定。

 新城へ早々に赴いて念入りに普請せよ。合計400人で5日分の御普請を全てに賦課しているので、肝心な箇所を当番衆として編成すると、遠山左衛門・福島丹波に申請するように。また、残りの分量と引き継いだ者とを両方記録して提出するように。