此時駿州人数スキタリト聞ヘケルニヤ、先年大河内一味ノ浪人等又武衛ヲ大将ニ招キ楯籠リ天竜川前後ヲ押領ス、氏親出張シテ掛川ノ城ニ旗ヲ建ラレ、翌年五月ニ彼敵ヲ攻ラル、折節洪水シテ天竜川海ノ如シ、船橋ヲ懸ラレ竹大綱百渡シ、軍勢ヲヤスゝゝト打渡シ敵城亡ソメタリ、五十余町ノ追籠、六月ヨリ八月迄日々休ム隙ナク攻ラルゝ、城高山ナレハ阿部ヨリ金堀ヲ召シ、城中ノ筒井ノ水皆堀抜ケレハ敵次第ニ弱リ、大河内・巨海・高橋以下今度ノ敵張本共不残討レ、大将ノ武衛殿色々降参ノ望有ケレハ命計リ助被申、城ヲ追出普済寺ト申寺ニ入出家アリ、法名安心ト名付主従五人尾張ノ地へ送リ申、氏親数度戦功ニ恐レ、遠三ノ諸士皆ナヒキ従ヒケリ、

→静岡県史 資料編7「1517(永正14)年の項目」(今川家譜)

この時駿河国の軍勢に隙があると聞いたのだろうか、先年大河内の一味となった浪人たちが再び斯波を大将に招いて立て篭もり、天竜川の近辺を制圧した。氏親が出撃して掛川の城に本陣を置き、翌年5月にその敵を攻められた。ちょうど洪水となっており天竜川は海のようだった。船橋を架けて竹の大綱を100本渡し、軍勢を円滑に渡河させ敵城を滅亡させた。50町余りを追撃し、6月から8月まで休むことなく攻め立てられた。城は高い山にあったので安倍から金山鉱夫を呼び寄せ、城中の井戸の水を全て抜いてしまったので、敵は次第に弱り、大河内・巨海・高橋以下、この度の敵の張本人は残らず討たれた。大将の斯波氏は色々と降参の望みを言い立てたので命は助けられた。城を追い出して普済寺という寺で出家させ、法名安心と名づけ、主従6名を尾張の地に送った。氏親の数回の戦功に恐れをなし、遠江・三河国の諸士は皆なびき従った。

今度牢人仕候て其方へ憑入参候処、種々御懇候得共、殊過分之御取かへなされ、進退をつゝけ本意仕候、色々御忠節共、あまりニ祝着千万候まゝ、於平地領中五拾貫之分末代遣置候、彼於知行子々孫々申事有間敷候、亦何やうニ成行候て、今度牢人いたし候時、方々へ出し置候知行、手ニ入候事候共、其方へ遣候知行ハ申事有間敷候、扨天文拾六年よりまへの借物過分ニ成行候処、彼知行遣し候付て御さしをき、是又畏入候、か様ニ色々御ちうせつ祝着候まゝ知行遣し候、於向後何事も如在申間敷候、仍為後日如件、

天文拾六年 丁未 潤月七月廿三日

形原又七 家広 判有

竹谷与次郎殿 まいる

→愛知県史 資料編10「松平家広証状写」(竹谷松平家文書)

 この度牢人いたしましてあなたに頼み込みましたところ、様々な親切をしていただきました。特に過分の交換をされて、家名存続の念願を果たせました。色々とご忠節いただき余りにも祝着ですから、平地領から50貫文を末代まで進呈します。あの知行について子々孫々まで申し立てることはありません。また、どのような成り行きであっても、この度牢人した際に方々へ散逸した知行が手に入ることがあったとしても、あなたへ進呈した知行について申すことはありません。さて、1547(天文16)年より前の債務が過分になったところ、あの知行を進呈して控除させ、これもまた畏れ入ります。このように色々とご忠節され、祝着であるままに知行を進呈します。今後は何事も申しません。後日のためこのように書き出します。

幡竜斎遠行、於氏真力落無是非候、仍為御吊定恵院越申候、随而香奠五千疋進之候、委細高井兵庫入道可申候、恐々謹言、

十二月廿三日

氏真(花押)

武田彦六郎殿

→静岡県史 資料編7「今川氏真書状写」(楓軒文書簒巻四十)

 幡竜斎の逝去で、氏真は力を落としていますが是非もないことです。定恵院が弔意を問い合わせてきたので、香典として5,000疋(50貫文)を進呈します。詳しくは高井兵庫入道が申し上げるでしょう。