今川義元、御宿藤七郎の安城攻撃を顕彰
於今度安城度々高名無比類動也、殊十月廿三日夜抽諸軍忍城、着大手釼先蒙鑓手、塀ニ三間引破粉骨感悦至也、同十一月八日自辰刻至于酉刻、終日於土居際互被中弩石走等門焼崩、因茲捨敵小口、翌日城中計策相調遂本意之条甚以神妙之至也、弥 … 今川義元、御宿藤七郎の安城攻撃を顕彰
於今度安城度々高名無比類動也、殊十月廿三日夜抽諸軍忍城、着大手釼先蒙鑓手、塀ニ三間引破粉骨感悦至也、同十一月八日自辰刻至于酉刻、終日於土居際互被中弩石走等門焼崩、因茲捨敵小口、翌日城中計策相調遂本意之条甚以神妙之至也、弥 … 今川義元、御宿藤七郎の安城攻撃を顕彰
去月廿三日上野端城乗取刻、任雪斎異見、井伊次郎同前ニ為後詰之手当相残于安城云々、誠神妙ノ至也、殊忠功肝要候、仍如件 十二月七日 義元(花押) ■野安芸守殿 →豊明市史「今川義元感状」(滋賀県 布施美術館) 1549(天文 … 今川義元、天野安芸守が安城守備に残ったことを評価
今度於三州安城、及度々射能矢仕、殊十一月八日追手一木戸焼崩、無比類働感悦之至也、又廿三日上野■南端城於右手ニ而も能矢仕、城中真先乗入、於本城門際、別而敵苦之条、神妙也、弥可抽忠功之状如件 十二月廿三日 義元判 弓気多七郎 … 今川義元、弓気多七郎が安城・上野で攻城に活躍したことを顕彰
和泉殿不慮之 仕合ニ而被相果 不及是非候然者 六左衛門指越候 和泉殿ニ不相替 馳走肝要候謹言 七月廿五日 家康(花押) 上田清兵衛とのへ 鈴木次兵衛とのへ 同久兵衛とのへ →新編東浦町誌「徳川家康判物」 和泉守殿が思い … 徳川家康、水野忠重の変死を報じ後継者を告知する
1559(永禄2)年 ○正月甲斐雪水大に民舎田圃を没す(妙法寺記)○十月十六日大雷雨十二月七日雷雨是日甲斐大雨水溢れて人家を没す(御湯殿上日記)○六月炎旱(厳助往年記)○是歳疫疾流行(妙法寺記) 1560(永禄3)年 ○ … 1559-1561年の異常気象
岡部五郎兵衛尉が鳴海を出て、合戦が収束したのはいつかを考察する。まず、各文書を時系列でまとめてみる。 合戦後最も早い文書は、5月22日に三浦内匠助が松井山城守に宛てたものだ。「去十九日、於尾州口不慮之御仕合、無是非次第 … 検証a12:鳴海開城はいつか?
就西尾在城参百貫文之分、所宛行之也、昼夜用心普請已下、無油断先二三ヶ年可遂在城、末々之儀者、至于其時可申付、然者自余之番衆、就有無沙汰者、急度可加異見者也、仍如件、 弘治参年丁巳 十月九日 治部大輔(花押) 三浦左京亮殿 … 今川義元、三浦左京亮に西尾城番の勤務を指示
来翰祝着候、殊鮭給候、賞翫申候、随而当陣之儀、其以後就被成吉良殿逆心、近日西条へ動之儀申付、彼庄内悉放火、二百余討捕候、可御安心候、就中東口無別状候哉、承度候、猶期来信候、恐々謹言、 閏十月四日 義元(花押) 幻庵御房 … 今川義元、北条宗哲に西条攻めを報告、国境の状況を尋ねる
去十六日於狐橋、被官小木源三郎切疵三ヶ所、木下藤次郎矢手、中村兵衛太郎切疵弐ヶ所、片切彦三郎矢手、小者一人矢手、各合鑓走廻候、此旨有御披露、御証判御申被下候者可畏入候、恐惶謹言、 八月廿五日 天野小四郎 虎景 飯尾善右衛 … 天野小四郎、飯尾善右衛門尉に戦傷者を報告する
去十六日於狐橋合戦、走廻之段神妙也、殊親類被官合鑓分捕高名、蒙疵抽粉骨云々、甚以感悦之至也、弥可勤軍功之状如件、 天文十四 八月廿二日 義元(花押) 天野安芸守殿 →静岡県史「今川義元感状写」 去る16日、狐橋における … 今川義元、天野安芸守が狐橋合戦で奮闘したことを顕彰