足柄当番之事

一、役者者、従已前如定来、番帳を御覧被相定尤候事、

一、諸法度此已前ニ不可替歟、番帳を御覧有勘弁、御仕置尤候事、

一、改而山之法度を申付候、猪鼻ニ一枚、小足柄ニ一枚有之、彼文言能ゝ有披見、手堅可有■知候、然者彼板ニ自先番付置人之交名之紙取之、其方衆之内紙ニ札を書、被張付尤候、

  付、彼奉行可致誓詞案文渡進事、

一、城外役所庭、此度左衛門大夫千人之手間を以申付候普請、何程ニ出来候、明鏡ニ見届、被致絵図、彼絵図ニかくゝゝと書付、左大帰路ニ被相渡、此方へ可給候、

一、小足柄・猪鼻口共ニ門外へ不出、大手・法経寺口計、草木取可出候、

  付、彼草木取、毎朝手判を以被出、彼手判を以帰路をも被改専一候、此番衆肝要之所候、有分別者を可被置候、依田衆可指加、

一、法経寺口木草取〓(片+旁)〓(人冠+小)者、山迄をハ可被為取、一足も山をおりさかり、田畠を不可踏、山者此方之山、田畠者他領と有覚悟、自然田へおり候者をハ、即時ニ可有生害、況河を越、向ニ行者をハ、不及糺明、可有生害、

一、自然草木取なと、御厨之者と假初ニも不取逢様ニ可有下知儀、肝要候、

一、雖記右、猶小足柄・猪鼻両口之山留専一肝要之所ニ候[を]剪払、結句従小足柄関庭之方へ道を付候所、已前見届候、吉原之陣庭ニ目付を被置、自然無届者見出搦候様ニ、可有仕置候、

一、猪鼻と足柄之間、地蔵堂之上之丸山、此間草木を取而見得候間、先度我ゝ帰路ニ、玉縄之関を直ニ召出、為剪塞候キ、猶此所堅下知候て、一切ニ自地蔵堂足柄之かたへ、かりニも人不入様ニ専一ニ候、是者猪鼻之城ニ指置者ニ、厳可有下知候、

一、諸曲輪はた板ニすへき分を以、申付候、今度之番普請者、大概彼木運、又はた板ニ可有之歟、大工前糺明候て、一方充可申付間、五日之内自是急度可申■■、

一、安藤曲輪、彼地見舞之砌之陣所と定、悉陣所を破たいらめて置候、二ケ所之矢倉ニ番衆を被指置、陣屋作を可被為待候、但夜中之番衆ハ、如何程可被入置も尤候事、

一、陣屋門・矢倉已下之破損者、先段淵底見届候、当番之不足ニハ無之候、有分別請取渡可被成候、

一、人馬之糞水手際を払、在城衆・番衆共ニ結構ニ為致尤候、此一ケ条をハ厳御断可然候、縦一日・二日番者延候共、妄ニして不可被請取候、

一、此度者六百之着到を以、可有御移候、

  付、仕懸之普請共候間、馬廻衆をハ先当地ニ置、普請を可被付候、相番之事候間、何時成共可指遣候、

 已上

右、定所如件、

壬午[虎朱印]五月八日

右衛門在殿

→戦国遺文 後北条氏編2336「北条家定書」(神原武勇氏所蔵文書)

壬午は天正10年。2箇所の紙継目裏にそれぞれ「調」朱印あり。

足柄当番のこと。

一、担当者は従来決めていたように、番帳をご覧になって決めるのがもっともなこと。一、諸規則はこの以前から替えてはならなかったでしょうか。番帳をご覧になって検討なさって確定するのがもっともなこと。

一、改めて山の規則を指示します。猪鼻に1枚、小足柄に1枚があります。あの文言をよくよく見て手堅くご指示下さい。ということであの板に前任者が貼った一覧一覧を取って、あなたの衆の一覧を書き、貼り付けられるのがもっともなこと。付則。あの奉行に誓詞を出させるべく案文を渡すこと。

一、城外の役所内でこの度左衛門大夫1,000人分の工数で普請を申し付けています。どの程度進んだか明確に確認して、絵図面を作成、その絵図面に逐次詳細を記載して、左衛門大夫が帰る際にお渡しいただき、こちらへお送り下さい。

一、小足柄・猪鼻口は共に門外へ出ず、大手・法経寺口だけから草木を取りに出て下さい。付則。その草木取りは毎朝確認書をお出しになって、その確認書帰路にも改めることが大事です。この番衆は重要拠点にいますから、分別のある者を置かれるように。依田衆を追加すべきでしょう。

一、法経寺口で木と草を取る境目は山までが取得可能とすること。一歩でも山を降り下がり田畑を踏んではなりません。山はこちらの山、田畑は他領と認識すること。万一田畑に降りた者は速やかに処刑するように。ましてや河を越え対岸に行った者は、事情など聞かず処刑すること。

一、万一草木取りなどで、御厨郷の者と仮初にも出会わぬように指示するべきこと。大切なことです。

一、右記しましたが、さらに小足柄・猪鼻両口の山留め。とても大切な場所なのを切り払い、挙句に小足柄から関所内の方へ道をつけたのを、以前確認しています。吉原の陣庭に目付を配置なさって、万一届けのない者がいれば捕縛するように指示なさいますように。

一、猪鼻と足柄の間、地蔵堂の上の丸山、この間に草木を取っているように見えましたため、前回我々が帰る際に、玉縄の関を直接呼び出し、切り塞がせました。さらにここの場所は堅く下知なさって、地蔵堂から足柄の方へは一切、仮にも人を入れないように専念して下さい。これは猪鼻の城に配置した者に厳しく下知なさいますように。

一、諸曲輪の端板にすべき分を申し付けます。今度の番普請は、大体あの木を運ぶことと、また端板にあるのでしょうか。大工作業を協議して一方面を申し付けますから、5日以内にこちらから取り急ぎ(確認?)申すでしょう。

一、安藤曲輪は、あの地を見舞った際の陣所と定めて、陣所全てを壊して更地にして置きました。2箇所の矢倉に番衆を配置なさって、後は陣屋作りに駆り出すように。但し夜中の番衆は、いくら入れて置いてもよいでしょう。

一、陣屋の門・矢倉以下の破損は、前回詳細を確認しています。当番の不足はありません。分別をもって受け渡しなさいますように。

一、人馬の糞尿は手際を払い、在城衆・番衆ともに問題なく取り運んで下さい。この1箇条は厳しく執行なさいますように。たとえ1~2日番が延びてでも、始末せずに受け渡しなさいませんように。

一、今回は600名の着到をもってお移りになりますように。付則。仕掛かった普請がありますので、馬廻衆をまず派遣しておき、普請を付けられますように。相番のことですから、いつなりとも送られますように。

条目

一、振舞朝召ニ可被定事、大酒之儀、曲有間敷候、三篇ニ可被定事、

一、下知之外虎口江出者、則時ニ可被致改易、若又可請公儀至于儀者、則可申越事、

一、家中者他之陣へ罷越、大酒呑儀、況及喧〓(口+花)口論儀、堅可被申付事、

 右三ヶ条、至妄自脇至于入耳者、永可儀絶候、仍如件、

 八月十日

 (氏康花押)

三郎殿

→小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏康条目」(神奈川県立博物館所蔵北条文書)

1556(弘治2)年に比定。

 条目。一、振舞は朝とるように決めなさい。大酒で間違いがあってはならない。3篇までと定めよ。一、命令以外で虎口の外へ出た者は直ちに改易とするように。もし公の用件で出るならば、連絡させるように。一、家中の者が他の陣へ行って、大酒を呑むこと、さらには喧嘩や口論に及ばないよう、厳重に指示しておくこと。
 右の3箇条を疎かにして、他者から耳に入ったなら、末永く義絶するだろう。

(別紙、異筆)「星名小隼人・松田大隈相備之砌、為後鑑、此条目大隈へ被相渡候」

就越河仕置条々

一明日廿五越河手次、別紙ニ進候、

一小旗之儀者、一手之まとい之間、物主之小旗一本、可被為張候、武具之儀者、何もさせゝらるへく候、儀者之儀者御随意、

一於川向館林領、竹本一本成共不可伐取候、郷中へ入者、即刻搦取、可為打捨旨、従小田原被仰越候之趣有覚語、厳蜜ニ可被申付事、

一可為野陣候、可有其覚語事、

一道作、従惣手以出合、陣庭迄為作可申候、可然奉行被差添、六以前当陣へ可給候事、

一船橋之警固、以寄合衆可指置候、物主注交名、可承之事、但自其年貮騎可被指置候、

右条ゝ、聊無相違様ニ、可被申付候、以上、

道作ハ四人可被出候、已上、

十二月廿四日

氏照(花押)

箕輪衆

星名小隼人佐殿

→神奈川県史 資料編3「北条氏照条書」(松田文書)

「星名小隼人・松田大隈が備えについた際。後に鑑みるため、この条目は大隈へ渡されたものです」
渡河時の処置条項。
一、明日25日の渡河手順は別紙にて渡します。
一、小旗のことは、足手まといとなるので、物主(責任者)の小旗1本をお張りなさるように。武具のことは、どれも遂行するようにお願いします。儀者のことは任意です。
一、川向こうの館林領で、竹木1本でも伐採したり、郷内に入った者は即座に逮捕して討ち捨てとする旨、小田原より仰せが来ているので、覚悟して厳密に指示すること。
一、道作りは全部隊より作業員を出し合い、陣庭まで作るよう指示して下さい。しかるべき奉行を差し添えて、6日以前にこの陣へよこして下さい。
一、船橋の警護は寄り合い衆で行なって下さい。物主の名簿は、これを承りたいこと。但し、その年から2騎を配置して下さい。
右の条項は少しの相違もないように、申し付けられるものである。以上。
道作りは4人を出して下さい。以上。

一番 二月朔日 貮万人 十そなへ 家康

二番 二月五日 一万三千人 六そなへ 信雄

四千人 蒲生松坂少将

三千二百人 上野宰相 津の中将

二千百人 森右近金山侍従

二千五百人 池田三左岐阜侍従

千二百六十人 稲葉右京郡上侍従

七百人 金森法印

四百人 りやうゑんどう

合計貮千三百六十人

二千人 村上周防

千人 青木紀伊守

五百七十人 大谷刑部

二百卅人 山田喜右衛門尉

二百人 大田小源五

合ニ千人

三千人 左衛門督 北庄侍従

ニ千三百人 北庄侍従衆

七百人 五郎左 松任侍従

千四百 溝口伯耆

合ニ千余人

ニ千七百人 長岡越中 丹後少将

→神奈川県史 「豊臣秀吉小田原陣陣立書」(毛利文書)

一越相甲無事之儀、先両国御請、於諸篇不可背上意之趣言上事、付、可有口上、

一輝虎雖有存分、先ゝ以言上之筋目、先閣是非、御入洛之儀御馳走、併御当家再興之事、

一就御入洛之儀、隣国諸侍各無異儀御請候、然者今程可然時節無之候条、此度輝虎御馳走別而被頼思食事、

一上杉殿受領事、

一輝虎依存分、急度重而可被差下御使節事、

以上

三月六日

信堅

藤孝

藤長

→神奈川県史「足利義秋老臣連署条書」(吉川金蔵氏所蔵文書)

一、越後・相模・甲斐の無事の事。まず両国の受諾、諸事情において背けない上意である事を報告、それに口頭連絡も付加する。

一、輝虎に言い分があるだろうが、まずは言上した筋目をもって、過去のことはさておき、御入洛について奔走、そして『御当家』を再興すること。

一、上洛の事。隣国の諸侍がそれぞれ異義を唱えず了解しています。ですから今ほど最適な時節はないでしょう。この度輝虎が奔走する事は、特別にお願いの思し召しです。

一、上杉殿の受領の事。

一、輝虎の考えに基づいて、取り急ぎ重ねて使節を差し下すだろう事。

藤孝は細川、信堅は飯河、藤長は一色、輝虎は上杉の各氏と比定。