就同名安芸守岩小屋在城令扶助、米銭之内四分一配当之段領掌了、弥可抽忠切者也、仍如件、

永禄元 戊午 年

八月廿日

治部大輔 判

天野小四郎殿

→静岡県史 資料編7「今川義元判物写」(天野文書)

 同じ苗字の安芸守が岩小屋に駐屯した補助金は、米・銭のうち四分の一を配当すると決定している。いよいよ忠節に励むように。

遠江国所々知行分、同国代官職事

右、任代々判形、父貞宗譲与之旨、永領掌不可有相違、并野辺・二俣御厨等不入事、是又所任先判也、但除棟別、縦増分雖為出来、令収務可増知行役、守此旨、弥可抽忠信之状如件、

永禄弐 己未 年

二月 廿二日

氏真(花押)

松井左衛門佐殿

→静岡県史 資料編7 「今川氏真判物写」(土佐国蠧簡集残編三)

 遠江国内の諸知行と同国代官職のこと。代々の判例に基づき、父親の貞宗の譲与し、末永く相違なく領掌せよ。並びに野辺と二俣御厨が不入であることも、先の判例の通りとする。ただし棟別は除く。たとえ増分ができたとしても、徴税して知行役として増すように。このことを守り、忠信に励むように。

今度召出大高在城之儀申付之条、下長尾一所之事、一円永所宛行之也、於遂在城者、連々可加扶助、彼郷之内、前々之被官等、無相違所還付也、守此旨、用心已下無油断可勤之者也、仍如件、

永禄弐 未己 年

八月廿一日

治部大輔(花押)

朝比奈筑前守殿

→豊明市史 「今川氏真判物写」(土佐国蠧簡集残編三)

 この度大高城の守備を命ずるに当たり、下長尾の所領一円を末永く宛行なうこととする。在城を遂げるならば、引き続き扶助を加えるだろう。あの郷の内では、以前の被官たちに相違なく還付するように。このことを守り、油断なく義務を遂行せよ。

父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事

一 東取合之刻、於当国興国寺口今沢、自身砕手、親類・与力・被官多数討死、無比類動之事

一 尾州入国以来、於田原城際、味方雖令敗軍相支、敵城内江押籠、随分之者四人討捕之事

一 松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、医王山堅固爾相拘、其以後於小豆坂、駿・遠・三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、無比類之事

一 苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事

一 吉良於西条、味方令敗軍之刻、宗信相返敵追籠、依其防戦、同心両人・益田兄弟四人、遂討死之事

一 大給筋動之時、天野安芸・同小四郎其外手負大切処、宗信相支、無相違引取之旨、無比類之事

一 去五月十九日、天沢寺殿尾州於鳴海原一戦、味方失勝利処、父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶、同心・親類・被官数人、宗信一所爾討死、誠後代之亀鏡、無比類之事

右、度々忠節感閲也、然間、苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋、以蔵入雖出置之、依今度忠節、為彼三万疋之改替、遠州蒲東方同名内膳亮、令扶助参拾貫文、其外相定引物之、参百拾八貫文余蔵入分、令扶助訖、此外於増分出来者、令所務随其可勤相当之役、殊於彼地先祖古山城討死之由申之間、彼地之事於子孫不可有相違、然者内膳公文等問答之未進事、可為左右方間、於向後此未進分一切不可有其綺、并長田・鶴見弐ケ村事、依訴訟今度相改、可令代官、但高辻弐百五貫文之外参拾貫者、如先代官時、為定納之余分令扶助、何茂知行分為不入上者、彼地事可為同前、弥守此旨、可専戦功之状如件

永禄三庚申年

十二月二日

氏真(花押)

松井八郎殿

→豊明市史「今川氏真判物写」(土佐国蠧簡集残編三)

父親の宗信が抜群の軍忠を度々遂げた事
駿河東方戦線での交戦時、興国寺口の今沢で自分自身が戦闘に参加し、親類や部下が多数討ち死にした。この働きは比類ないものである。
尾張入国後、田原城攻撃時も味方が敗退する際に支援を行ない、追い討ちしてきた敵を城内に押し戻した。そのときに敵の有名な者4人を討ち取っている。
松平蔵人が織田備後守と同盟を結び、大平と作岡、和田の3城を構築した際も、医王山城で堅固に籠城し、その後の小豆坂で駿河・遠江・三河の軍勢が戦闘を展開し退却した際、敵が追いすがってきたところを、宗信が追い返したことは比類ない出来事である。
刈谷に入城する際、尾張の軍勢が出動し通路を封鎖したが、すぐに突入して度々戦闘を展開し、親類や部下を多数失いながら奮戦した。
吉良の西条において、味方が敗戦した折、宗信は敵を追い返して押し込めた。その防戦で同心2人と益田兄弟4人が討ち死にしてしまった。
大給方面で軍事展開があった時、天野安芸守と天野小四郎その他が負傷し敗戦したところ、あなたの父宗信が支援し、間違いなく撤退させたことは比類ないことである。
今年5月19日に天沢寺殿が尾張の鳴海原で一戦したとき、味方が勝利を失った局面で、あなたの父宗信は敵を何度も追い払い数十人を負傷させたが、敵わず、部下や親類数人とともに宗信は討ち死にを遂げた。本当に後世に伝えるべきお手本で、比べるものがない。
この多数の忠節には感服するよりない。刈谷城駐屯時に現金2万疋(200貫文)、最近に1万疋(100貫文)で合計3万疋(300貫文)を、蔵入(今川家税収枠)から支出していたのだが、今度の忠節によってこの3万疋を改めることとする。遠江国蒲東にいる一族の内膳亮に30貫文を与える。そのほか、所定の差し引き額を考慮した上で318貫文余りを蔵入から給付する。ただし増分ができた場合には課税評価を改めて行なう。ちなみに、この地の事であなたの先祖である古山城(前代の山城守)が討ち死にしたことを聞いた。その地のことは子孫に至るまで相違があってはならない。これを受け、土地所有証明の書類が未提出な内膳亮の件は、双方の言い分を聞くために保留する。未提出書類についてはごまかしをしないように。また、長田と鶴見の2村のことは、訴訟によって改めたので、代官として着任するように。ただし納税金額205貫文のほか30貫文は、先任の代官と同じように。どの知行も不入なので、ここで挙げた知行も同じように扱う。この趣旨を守り、戦功を挙げることに専念すること。