一譜代の名田、地頭無意趣に取放事、停止之畢、但年貢等無沙汰におゐてハ、是非に不及也、兼又彼名田年貢を可相増よし、のそむ人あらハ、本百姓に、のそミのことく可相増かのよし尋る上、無其儀は、年貢増に付て、可取放也、但地頭本名主を取かへんため、新名主をかたらひ、可相増のよし虚言を構へハ、地頭にをいてハ、かの所領を可没収、至新名主ハ、可処罪科也、
一田畠并山野を論する事あり、本跡糾明之上、剰新儀をかまふる輩、於無道理者、彼所領の内、三分一を可被没収、此儀先年議定畢、
一川成海成之地うちをこすに付て、境を論する儀あり、彼地年月を経て、本跡かたくハ、相互にたつる所の境之内、中分に可相定歟、又各別の給人をも可被付也、
一相論なかは手出の輩、理非を不論越度たるへき事、旧規よりの法度也、雖然道理分明の上、横妨の咎永代に及ハゝ不便たるか、自今以後ハ三ヶ年の後公事を翻、理非を糾明し可有落居也、
一古被官他人めしつかふ時、本主人見あひに取事、停止之畢、たゝ道理に任、裁許にあつかり、請取へき也、兼又本主人聞出し、当主に相届の上は、被官逐電せしめハ、自余の者以一人、可返付也、
一譜代の外、自然めしつかふ者、逐電の後廿余年を経ハ、本主人是をたゝすに不及、但失あつてちくてんの者にをいてハ、此定にあらさるへし、
一夜中に及、他人の門の中へ入、独たゝすむ輩、或知音なく、或兼約なくハ、当座搦捕、又ハはからさる殺害に及ふとも、亭主其あやまりあるへからさる也、兼又他人の下女に嫁す輩、かねて其主人に不届、又ハ傍輩に知らせす、夜中に入来は、屋敷の者、其咎かゝるへからす、但からめとり糾明之後、下女に嫁す儀於顕然者、分国中を追却すへき也、
一喧嘩に及輩、不論理非、両方共に可行死罪也、将又あひて取かくるといふとも、令堪忍、剰被疵にをいてハ、事ハ非儀たりといふとも、当座おんひんのはたらき、理運たるへき也、兼又与力の輩、そのしはにをいて疵をかうふり、又ハ死するとも、不可及沙汰のよし、先年定了、次喧嘩人の成敗、当座その身一人所罪たる上、妻子家内等にかゝるへからす、但しはより落行跡におゐてハ、妻子其咎かゝるへき歟、雖然死罪迄ハあるへからさるか、
一喧嘩あひての事、方人よりとりゝゝに申、本人分明ならさる事あり、所詮其しはにおゐて、喧嘩をとりもち、はしりまハり、剰疵をかうふる者、本人の成敗にをよふへき也、於以後本人露顕せハ、主人の覚悟に有へき也、
一被官人喧嘩并盗賊の咎、主人かゝらさる事ハ勿論也、雖然分明ならす、子細を可尋なと号し、拘をくうち、彼者逃うせハ、主人所領一所を可没収、無所帯ハ、可処罪過、
一わらハへいさかひの事、童の上は不及是非、但両方の親、制止をくハふへき処、あまつさへ鬱憤を致さハ、父子共に可為成敗也、
一童部あやまちて友を殺害の事、無意趣の上ハ、不可及成敗、但、十五以後の輩ハ、其とかまぬかれ難歟、
一知行分無左右こきやくする事、停止之畢、但難去要用あらハ、子細を言上せしめ、以年期定へきか、自今以後、自由之輩ハ、可処罪過、
一知行の田畠、年期を定沽却之後、年期末をハらさるに、地検を遂事停止之了、但沽却以前に、地検之儀令契約、沽券に載、又ハ百姓私として売置名田者、沙汰の限にあらさる也、雖然地頭沽券に判形をくハへハ、同可停止之、
一新井溝近年相論する事、毎度に及へり、所詮他人之知行を通す上ハ、或替地、或ハ井料勿論也、然は奉行人をたて、速に井溝の分限をはらかふへし、奉行人にたりてハ、以罰文、私なき様に可沙汰也、但自往古、井料の沙汰なき所にをいてハ、沙汰の限にあらさる也、
一他国人に出置知行沽却する事、頗いはれさる次第也、自今以後停止之畢、
一故なくふるき文書を尋取、名田等を望事、一向停止之畢、但、譲状あるにをいてハ、可為各別、
一借米之事、わりハ其年一年ハ契約のことくたるへし、次の年より、本米許に一石にハ一石、五ヶ年の間に、本利合六石たるへし、十石にハ十石、五ヶ年の間に、本利合六十石たるへし、六年にをよひて、無沙汰に付てハ、子細を当奉行并領主にことハり、譴責に可及也、
一借銭のこと、一はいになりて後、二ヶ年之間ハ、銭主相待へし、及六ヶ年、不返弁は、当奉行并領主にことハり、可及譴責也、米銭共に利分の事ハ、契約次第たるへし、
一借用之質物に知行を入置、進退事尽るゆへに、或号遁世、或欠落のよし、侘言を企る儀有之、去明応年中歟、庵原周防守此儀ありし、譜代の忠功もたし難きにより、一旦随其儀畢、但、以料所焼津ノ郷、銭主に遣之、今年、大永五乙酉、房州しきりに言上難去条、一往加下知ところ也、一家と云、面々と云、一返ハ其儀に任といへとも、自今以後、此覚悟をなす輩ハ、所帯を没収すへきなり、
一他人の知行の百姓に譴責を入る事、兼日領主と当奉行人にことハりとゝけすハ、縦利運の儀たりと云共、可為非分也、
一不入之地の事、改るに不及、但其領主令無沙汰成敗に不能、職より聞立るにおゐてハ、其一とをりハ、成敗をなすへき也、先年此定を置と云共、猶領主無沙汰ある間、重而載之歟、
一駿府の中不入地之事、破之畢、各不可及異儀、
一駿・遠両国津料、又遠の駄之口の事、停止之上、及異儀輩ハ、可処罪過、
一国質をとる事、当職と当奉行にことハらす、為私とるの輩ハ、可処罪過也、
一駿・遠両国浦々寄船之事、不及違乱船主に返へし、若船主なくハ、其時にあたりて、及大破寺社の修理によすへき也、
一河流の木の事、知行を不論、見合にとるへき也、
一諸宗之論之事、分国中にをいてハ、停止之畢、
一諸出家取たての弟子と号し、智恵の器量をたゝさす、寺を譲あたふる事、自今以後停止之、但、可随事体歟、
一駿・遠両国之輩、或わたくしとして他国よりよめを取、或ハむこに取、むすめをつかハす事、自今以後停止之畢、
一私として、他国の輩一戦以下の合力をなす事、おなしく停止之畢、
一三浦二郎左衛門尉、朝比奈又太郎、出仕の座敷さたまるうへハ、自余の面々ハ、あなかち事を定むるに不及、見合てよき様に、相はからハるへき也、惣別弓矢の上にあらすして、意趣をかけ、座敷にての事を心かくる人、比興の事也、将又勧進猿楽、田楽、曲舞の時、桟敷の事、自今以後、鬮次第に沙汰あるへき也、
一他国の商人、当座被官に契約する事、一向停止之畢、
以上三十三ヶ条
右条々、連々思当るにしたかひて、分国のため、ひそかにしるしをく所也、当時人々こさかしくなり、はからさる儀共相論之間、此条目をかまへ、兼てよりおとしつくる物也、しかれハひひきのそしり有へからさる歟、如此之儀出来之時も、箱の中を取出、見合裁許あるへし、此外天下の法度、又私にも自先規の制止は、不及載之也、
大永六 丙戌 年四月十四日 紹僖在印判
→静岡県史 資料編7(今川仮名目録)