今度越国人数、向小田原相働之刻、為加勢申付候処、以一身之覚悟、武州河越令籠城、数度竭粉骨、殊於河窪口伏兵砌、抽諸勢、渡辺三蔵両人入馬、彼敵押立候、軽身命、被鑓手二ヶ所之段、太以所無比類也、其上於平方口、最前ニ敵之備へ馳入、頸一討捕候、同三月十八日、於高麗郡遂一戦、令殿、人数無相違引取之旨、氏政感状明鏡也、誠可為後代之亀鏡歟、弥可抽戦功之状如件、
永禄四年
四月廿五日
氏真判
小倉内蔵助殿
→神奈川県史 資料編3「今川氏真判物案写」
この度越後国の軍勢が小田原に進軍した際、加勢するよう申し付けたところ、一身の覚悟をもって武蔵国川越に籠城し、数回粉骨を尽くした。特に河窪口での伏兵では、他の部隊にぬきんでていた。渡辺三蔵と共に馬を入れ、敵を追い払った。身命を軽んじて槍傷2つを受けたことは大いに比類のないことだ。その上平方口では、真っ先に敵陣に突入し、首級を1つ挙げた。同じく3月18日には高麗郡で一戦を遂げ、殿を勤めながら兵員を相違なく撤収させた。このことは北条氏政の感状で明白である。本当に後世の手本となることではないか。いよいよ戦功にぬきんでるように。