何だかここ最近の日本では、引用・転用・盗用の区別が曖昧になっているような気がする。というのも、『無断引用』という言葉がテレビ・新聞で多く用いられているためだ。この言葉は『引用』の語義を誤っており、成り立っていない。

ネット上でも正しい用い方を意見する記事が上がっていた。

「無断引用」はやめて「盗用」か「剽窃」にしよう。
著者:末廣恒夫

「無断引用」は誤用か、メディアの造語か 著者:楊井人文(日本報道検証機構代表理事)

「無断引用」という表現はやめよう 著者:西原史暁

ちょっと整理して考えてみる。私が理解しているのは以下のような区分けである。

引用

これは無断でするもの。条件としては、引用部分が本文と区別されており、なおかつ引用が従で本文が主となる構成であること、引用元の著作物情報が併記されていることが求められる。

転用

「転載」と書くことが多い。基本的には複製行為を指す。たとえば他者の小説をそのままコピーして自分が印刷する書籍に入れること。最近ではWebを中心にデジタルコピーが広く行なわれるようになって、状況が色々と変わりつつある。著作者に無断で行なってはいけない。

盗用

その作者が自分であると偽って行なう転用。デジタルコピーは劣化がなく手軽なので、Webを介してブログの記事内容を書き写したり、画像・写真を自分のものとしてアップロードしたりと多発しているのが現状。これは完全に違法。

本来表現のプロであるメディアがなぜ「無断引用」なる奇妙な表現を使うのか。商業上の観点からすると、(原作者によるものでも、企業にとって無断であれば)転用はそもそもあってはならない。出版・放送を自社が独占することで利潤を上げているからだ。その挙句、著作権を持っている作家が版元を変更するのも嫌がる。

同じく、引用も無断で行なわれると売り上げに影響されるケースがある(いわゆる『ネタばれ』で購入者が減ったり、誤った情報流布で対応が必要になったり)。このため、マス・メディアは引用であっても情報源に確認を行なうことが多い。新商品や企業情報だと、メディアの顧客である広告主が源なので、余計に引用確認はきっちり行なう。だからこそ、テレビ・新聞は自身が業界内で使っている「無断引用」という言葉を用いているのかも知れない。

[note]以前雑誌編集に携わった経験からいうと、やはり「メーカーチェックなし」の記事は危険だという認識はあった。最悪の場合、広告部が怒鳴り込んでくる。『表現の自由』については、ほんのり空気のように漂っている感じだった。[/note]

「引用」という決め事は、知識を次世代に引き渡し継続的に課題に取り組むための貴重な権利であり智恵だといえる。先人が苦労して構築した論証や仮説にフリーライドできるのだから。もし引用に許諾が必要となり、著作者と連絡する術を持たぬ場合、研究は大きく後退してしまう。それはひいては引用元の作者にとってすら不幸なことだといえる。だからこそ、引用は無断で行なえなければならない。

ちなみにこのサイトは、引用はもちろん無断転用も歓迎する(何かの役に立つのなら)。ただ、盗用はご遠慮いただきたい。盗用が行なわれると「どちらがオリジナルか」とか「なぜ盗用したのか」とか、本論とは関係ない部分で手間がかかりそうだし、盗用先で論破されても私にフィードバックされないのが寂しい。まあそこも含めてどうしても盗用したいということだと、ネット空間では止めようはないのだが……。

今度不慮之儀不及非是候、雖然、当城ヘ御移被成、御供衆■■衆数多被楯籠候、御兵粮其外てつ放・玉薬・御矢以下五三年之間不足有、為物主可打入之由候、御本意程有間敷候、就中、当城堅固ニ被拘由、毎度之御忠節候、畢境此時候条、可被尽御粉骨事専一候、御書被成候間、弥御忠節専一候、各満足此事候、御領中方之儀者、如御所望可申調候、恐々謹言、

十二月甘一日

 朝備 泰朝

 大左

 金遊 芳線

 中彦 参御報

 朝下 親孝

→戦国遺文 今川氏編2214「朝比奈泰朝等連署状写」(大沢文書)

永禄11年に比定。

 この度の不慮のこと、どうしようもありません。とはいえ、当城へお移りになられ、お供衆(旗本?)衆が多数籠城しています。ご兵糧その他、鉄砲・弾薬・御矢以下数年の間は不足はありません。物主として出撃なさるだろうとのこと。御本意を達するのに時間はかかりません。とりわけ、当城を堅固に守備なさっているとのこと、いつものご忠節、つまるところこの時ですから、ご粉骨を尽くされることが専一です。御書状を成されましたから、ますます忠節が専一です。各々の満足はこの事です。ご領中の所領は、お望みのままにご用意しましょう。