大沢右京父子去年上田一戦之時討死、然処名代可相続骨肉無之歟、因茲為近所故、孫子亀寿致彼遺跡、忠儀不断絶様ニと申候哉、殊彼骨肉親類中ニ無拠遺跡可令相続人体罷出申事候者、其時者不及異義可相渡段、以書付申之間、任其義候、彼後家・親類以下ニ無非法之義、順路ニ可成刷旨、能々可加意見候、謹言、

七月九日

 憲房(花押)

発知山城入道殿

→駿河台大学論叢第41号 13「発知山城入道宛書状」(発知文書)

1511(永正8)年に比定。

 大沢右京父子が去る年上田一戦の時に討ち死にし、そうしたところ、名代を継ぐべき近親者もいないのでしょうか。これにより、近所ということで(あなたの)孫子の亀寿があの相続をして、忠義を絶えさせないようにと申しましょうか。特に彼の近親・親類中がいないために(亀寿が)相続する訳ですから、相続人が名乗り出たならば、その時は異議を言わずに家督を渡すようにと書付によって言い渡していますから、その旨の通り、彼の後家・親類以下に非法なことをしないよう、順当に扱うようによくよく意見を加えるように。

御上洛之路次如何、無御心元候、抑一心院事、大概無相違候処、去年越州へ罷立以来、彼寺領有違乱之族相煩候、口惜存候、然而系図御上、於其偏失本意候、雖然於時宜者事成候間、門主之御前、公方様被得上意、被差越御代官等御刷候者、定治部少輔入道建芳も不可及兎角候、拙子も弥涯分可致異見候、不可有御退屈候、抑去六月廿二日、於椎屋一戦失利候事、所存之外候、然処長尾六郎・高梨摂津守競来候間、同廿日遂一戦、可諄討死不及申次第候、椎屋一戦以後者妻有之庄ニ立馬候、国中如此上、不及力関東へ入馬、白井ニ候処ニ、長尾左衛門入道伊玄起逆心、彼同名六郎ニ致一味、沼田之庄内江乱入、号相俣ニ令張陣候間、于今此方取向候、古河様無御余儀、建芳無等閑候間、別条之子細無之候、伊勢新九郎入道宗瑞、長尾六郎と相談、相州江令出張、高麗寺并住吉之古要害取立令蜂起候、然間建芳被官上田蔵人入道令与力宗瑞、神奈河権現山於取地利、致慮外候間、建芳自身向彼地罷立候、然間目当方も為勢遣、成田下総守・渋江孫太郎・藤田虎寿丸・長尾孫太郎為代官矢野安芸入道・大石源左衛門同名三人・長尾但馬守為代官成田中務丞、其外武州南一揆之者共罷立候、自去十一日相攻彼権現山、同十九夜中令没落候、然間所々要害令自没候由、注進到来候間、相州口ハ先此分候、将又長尾六郎非殺民部大輔房能耳、重而可諄身体如此之条、為家郎亡両代之主人候事、天下無比類題目候、願関東・越州之為体、幸淵底御存知事候上者、以御次而被達上聞、彼六郎并高梨被加御追代候様、御申奉頼候、然間近国之諸士之方江被成御内書候者、何も可応 上意候、特細川右京大夫・畠山尾張守・大内左京大夫・伊勢伊勢守方、此分寄々有御伝語、可然様ニ申御沙汰頼存候由、届可為肝要候、関越如此之上、剰可諄討死之間、公方様御上洛御礼可申上候事延引候、弥被失本意候、少も静謐之形ニ候者、可言上仕覚悟候、随而越州松山之儀、被成下御内書候間、先其御礼、又者越州之体如此之次第、為可達上聞、雖老者候、倩木村式部入道差上候、能々有御面談、可然様御取刷、頼入存候、万端難尽筆紙候間、令付与彼口上候由、可得尊意候、恐惶敬白、

八月三日

藤原憲房

拝呈

上乗院

御同宿中

→駿河台大学論叢第41号 11「上乗院宛書状写」(古簡雑纂七)

1510(永正7)年に比定。

ご上洛の道中はいかがでしょうか。お心もとないことです。そもそも一心院のことは、概ね相違がなかったところ、去る年越後国へ出陣して以来、あの寺領で違乱の輩がいて問題になっていました。口惜しいことです。そうして系図をお上げして、それでひとえに本意を失いました。とはいえ時宜によっては事がなりますから、門主の御前、公方様の上意を得られて、御代官らを派遣なさって処理なさるならば、きっと治部少輔入道建芳もとやかく言わないでしょう。私もますます頑張って意見するでしょう。お努めを怠ってはなりません。

そもそも去る6月22日、椎屋の一戦で利を失いましたこと、想定の範囲外でした。そうしたところ、長尾六郎・高梨摂津守が競い来たったため、同20日に一戦を遂げて討ち死にした可諄のことは申す次第には及びません。椎屋一戦以後は妻有の庄に馬を立てました。越後国がこのような状況だったので、力及ばず関東へ馬を入れ、白井にいましたところ、長尾左衛門入道伊玄が逆心を起こし、同姓である六郎と一味して、沼田の庄内へ乱入、相俣というところに陣を張りましたので、ただいまこちらに取り向かっています。古河様は余儀なく、建芳は等閑ないので、特別な事情もありません。

伊勢新九郎入道宗瑞が長尾六郎と相談し、相模国へ出張、高麗寺と住吉の古い要害を取り立てて蜂起しました。というところにも、建芳の被官である上田蔵人入道が宗瑞に与力し、神奈川の権現山において地利を取り、考えなしなことをしましたので、建芳自身があの地へ出陣しました。そうしたところ、当方も部隊を派遣し、成田下総守・渋江孫太郎・藤田虎寿丸・長尾孫太郎代官の矢野安芸入道・大石源左衛門の一族3名・長尾但馬守代官の成田中務丞・そのほか武蔵国南一揆の者どもが出陣しました。去る11日よりその権現山を攻め、同19日夜中に落城させました。そうしたところ、あちこちの要害が自没したとの報告が来ましたので、相模国方面はまずこのような状況です。

一方で長尾六郎は民部大輔房能を殺したのみにあらず、重ねて可諄の身体をこのようにしましたのは、家臣が累代の主人を滅ぼすこと、天下に例がない題目です。関東・越後国が体を成すことを願い、幸いにして淵底をご存知のことですから、次の一報でご報告します。あの六郎・高梨、『御追伐』(懲罰?)を加えられるよう、申し上げてお頼み申し上げます。そうしたところ、近国の諸士たちへ御内書をお送りいただけるなら、皆も上意に応じることでしょう。特に細川右京大夫・畠山尾張守・大内左京大夫・伊勢伊勢守に、この内容を機会があればご連絡下さい。このように処分をお願いして申し上げていること、届けるのが大事なことです。

関越がこのようになっている上、可諄が討ち死にしてしまいましたから、公方様がご上洛してお礼を申し上げる件は延期します。ますます本意を失っています。少しでも静謐になるのならば、言上する覚悟です。従って、越後国松山のこと。御内書を下していただきましたので、まずそのお礼、または越後国の状況がこのようになってしまった事情を上聞に達せられますように。老いた者ですが、よくよく考えて木村式部入道を上洛させました。よくよくお話いただき、しかるべきようにお取り図り下さい。お頼み申します。万端筆紙に尽くしがたいので、あの者に口上として付与します。尊意を得られますように。

[封紙ウハ書]「(異筆)『永正九年七月七日到来』横瀬新六郎殿 高基」

今度長尾但馬守相談、於其口大功候之条、忠信之至候、然者、至武州憲房出陣、被相急之様景長令談合、可加意見候、巨細昌松首座可令対談候、謹言、

七月二日

 (高基花押)

横瀬新六郎殿

→戦国遺文 古河公方編513「足利高基書状」(東京大学文学部所蔵由良文書)

 この度長尾但馬守と相談し、その方面において大功を挙げられたのは忠信の至りです。ということで、武蔵国に憲房が出陣となったので急ぎ景長と打ち合わせて意見を加えますように。詳しくは昌松首座が対談するでしょう。