「御竪紙ニテ如左」

権現堂之城掟

一、何之番ニ候共、兼日定置着到之人衆、三日ニ一度ツゝ可被相改、若一騎一人も不足ニ付而者、可有披露、過失を可申付事、

一、当番ゝゝ之物頭、於其家中も、 大途御存之者を可申付、一騎合躰之者、一切令停止事、

一、番普請者、出来之上、房州代取一筆、可致披露事、

一、境目之儀候間、当番ゝゝ、鉄砲之玉薬・矢以下、随其着到、無不足入置、少も不可致油断事、

一、番替之毎度請取之曲輪、綺羅美耀二致掃除、厳重二請取渡可致之事、

右、五ヶ条之旨、毛頭○[無]妄様可被仰付候、只今肝要之境目二候間、如此定置者也、仍如件、

[虎朱印]戌子

五月廿一日

安房守殿

→小田原市史 中世3小田原北条2「北条家掟書写」(吉田系図)

1588(天正16)年に比定。

権現堂城の掟

一、どの番であっても、かねて定めておいた着到の員数かを3日ごとに検査し、もし1騎・1名でも不足しているならば、報告せよ。罰を申し付ける。一、当番ごとの責任者は、そちらの家中でも氏直が見知っている者を任命すること。一騎合の体の者は一切禁止する。一、普請の番では完成した上で氏邦が代わりに一筆して報告すること。一、国境のことなので、当番ごとに鉄砲の弾薬、矢などはそれぞれの着到によって不足がないように入れておき、少しの油断もないこと。一、番の交代ごとに曲輪を受け持った者は、きらびやかに掃除をしてから受け渡しを行なうこと。
右の5箇条の内容について、毛ほどの侮りもないように仰せ付けである。現在重要な国境地点であるので、このように定め置くものである。

一当郷ニ有之者、侍・凡下共ニ廿日可雇候、行之子細有之間、悉弓・鑓・鉄炮何にても得道具を持、何時成共、一左右次第、可罷出事、

一此度若一人成共、隠而不罷出儀、後日聞届次第、当郷之小代官并百姓頭可切頸事、

一惣而為男者ハ、十五、七十を切而、悉可罷立、舞ゝ・猿引躰之者成共、可罷出事、

一男之内当郷ニ可残者ハ、七十より上之極老、定使、十五より内之童部、陣夫、此外者悉可立事、

一此度心有者、鑓之さひをもみかき、紙小旗をも致走廻候ハゝ、於郷中、似合之望を相叶被下事、

一可罷出者ハ、来廿八日公郷之原へ集、公方検使之前にて着到ニ付、可罷帰、小代官・百姓頭致同道、可罷出、但雨降候ハゝ無用、何時成共、廿八日より後天気次第罷出、可付着到事、

 付、着到ニ付時、似合ニ可持道具を持来、可付之、又弓・鑓之類持得間敷程之男ハ、鍬・かまなり共、可持来事、

一出家ニ候共、此度一廻之事、発起次第、可罷立事、

 右、七ヶ条之旨、能ゝ見届、可入精、愚ニ致覚悟候者、可行厳科、又入精候者、為忠節間、如右記似合之望を相叶、可被仰付者也、仍如件、追而、御出馬御留守之間、御隠居御封判を被為

 推候、以上、

[有効朱印]七月廿三日

木古葉 小代官

    百姓中

→神奈川県史 資料編3「北条氏政掟書写」(相州文書所収三浦郡増右衛門所蔵文書)

1585(天正13)年に比定。

 掟。
 一、当郷にいる者は、侍・凡下ともに20日雇うこととする。手立ての詳細はあるので、全員が弓・槍・鉄砲の何れかの武器を持ち、いつであっても連絡次第で出てくること。
 一、この度はもし1人でも隠れて出てこなかった場合、後日把握出来次第、この郷の小代官・百姓頭を斬首すること。
 一、総じて男たる者は、15~70歳で切って、ことごとく出て、舞々・猿楽の者であっても出てくること。
 一、男のうちこの郷に残るべき者は、70より上の『極老』・使者・15より下の児童・陣夫である。このほかはことごとく立つべきこと。
 一、この度心ある者は、槍の錆びを磨き、紙の小旗をして活躍するならば、郷内において、見合った望みを叶えて下さるだろうこと。
 一、出るべき者は、来る28日に公郷の原へ集まり、公方検使の前で着到してから帰りなさい。小代官・百姓頭が同道して出るように。但し雨が降ったら順延で、28日以降の天気次第で出て、着到をつけること。
 附則。着到する際、見合った武器を持って来て、これを記入する。また、弓・槍の類を持っていない男は、鍬・鎌などでも持って来ること。
 一、出家であっても、この度一巡りのこと、発起次第で立つこと。
 右の7箇条の旨、よくよく見届け、精を入れるように。愚かな覚悟をするなら厳しい罪に処す。また、精を入れ忠節をなすならば、右記の通り見合った望みを叶えると、仰せ付けられている。
 追記。ご出馬でお留守なので、ご隠居が封印の判を押された。