(軸裏)

藤原織田勘十郎

菅丞相御自筆主像

熱田太神宮

令寄進者也

天文廿二年[癸丑]六月吉日

→愛知県史 資料編10「菅原道真画像墨書銘」(熱田神宮)

氏綱(花押)

天文五年

三月十日

→愛知県史 資料編10「螺鈿鞍陰刻銘」(小坂井町菟足神社)

吉田城代駿州藤原朝臣伊東左近将監元実

        代官藤原朝臣吉田四郎左衛門重安

天王御宮一宇

 天文二十二 甲寅 年六月 作事奉行 畑三郎左衛門勝吉

                   佐久間平助光信

→愛知県史 資料編10「棟札写」(豊橋市吉田神社)

一氷上宮拝殿破損之時、大高城主水野大膳亮殿御内村瀬隼人勧進ヲシテ建立之時、コケラ葺ニフキ替、同神前之鳥居被建、大高村之大工也、鈴置善太夫正秀ト云者也、

天文十二 癸卯 年二月吉祥日 祝詞社主 吉長

→愛知県史 資料編10「氷上宮記(冊子)」(久米家文書)

 氷上宮の拝殿が破損したとき、大高城主水野大膳亮殿の家臣、村瀬隼人が勧進して建立した。その際、柿葺きに葺き替え、同じく神前の鳥居を建てたのは大高村の大工である。鈴置善太夫正秀という者である。

先婦養珠院宗栄儀

在中全書法華六十六部未充宝納氏綱

綱前緒取収篭之

金筒追州(修)於旧蹟贈

献 願伏此功早證

仏果及与群生円種(珠)

大永戊子七月日 願主敬白

→戦国遺文 後北条氏編「大田八幡宮経筒銘(島根県大田市・南八幡宮)」

大永戊子は、1528(大永8/享禄元)年

亡妻である養珠院宗栄のことで、法華経六十六部をここに入れて納めましたが、すべてではありませんでした。氏綱は改めてこれをとり納めます。金属の筒を追贈し、いち早く功徳があるようお願いいたします。仏の果報が得られあらゆる生き物に円珠を与えてください。

信州伊那郡箕輪城攻、四月十一日当国御出陣、六月十七日御帰府、降参被申含、弟御供御馬入、御合力勢駿州ヨリ三百、相州三百、

→静岡県史「歌仙板額」(山梨県大井大俣神社旧蔵)

信濃国伊那郡箕輪城を攻め、4月11日にこの国を出陣、6月17日に帰還された。降参を申し含められ、弟が共に馬を入れた。援軍は駿河国より300、相模国より300。

「胎内腹部」

奉 造化御影像之事

 右、彼施主古郷豆州之住呂、名字朝倉

 息女北条九郎之御前 御子ニハ

北条佐衛門大夫綱成、同形部少輔綱房、同息女松田尾州之御内也、爰以至衰老、中比発菩提心、為逆菩提、奉彫刻木像也、

「胎内背部」

并奉寄進拾ニ貫文日牌銭、

法名

養勝院殿華江忠大姉

相州小坂郡鎌倉名越

   安養院住持第十六代高蓮社山誉大和尚

    仏所上総法眼

    使者大河法名善信 謹言

             敬白

于時天文拾八年 己酉 九月十八日

→鎌倉市史「朝倉氏像銘」(大長寺文書)