彦六郎所へ十五日之一札、今十六辰刻披見候、返答も非失念申候、仍去朔日四郎人衆・其方人衆足柄へ懸着候、五日ニ罷帰候、左候ヘハ四日打込ニ候、又大藤一日番替遅先番致之候、合五日当番延候間、来廿一人衆を被立、廿ニ書替尤候、随而足柄手広ニ付而、其方人衆不足之由、無余儀候、我ゝも心底ニハ深其分ニ候ヘ共、為如何も人衆之引張無之間、不及了簡無衆之積、第二ニハ小田原程近候間、小幡先を見候ても、片時之内ニ自小田原ハ可懸着候、覚悟是故無衆之積ニ候、何篇ニも敵味方御調儀之刻候間、如何様ニも可重人衆候、兎角ニ月会ニ者、諸卒を小田原へ可相集覚悟候、委細愚意重而可申候、恐々謹言、

七月十六日

氏政(花押)

左衛門大夫殿

→戦国遺文 後北条氏編「北条氏政書状」(岡本貞然氏所蔵文書)

1571(元亀2)年に比定。

 彦六郎の所へ15日に到着した書状が、現在16日辰刻に拝見しました。返答を忘れていたのではありません。去る1日に四郎の部隊とあなたの部隊が足柄へ到着しています。5日に帰還しますから、その通りになれば4日間の勤務です。また、大藤がその前に番をしていますが1日間延長され合計5日当番となっています。来る21日に部隊を出立させ、23日書き換えるのが妥当です。ということで、足柄が手広となりあなたの部隊では不足となるとのことですが、どうしようもないことです。我々も心から認識して考えているところではありますが、どうやっても部隊を引き継げないので、方針に合わず穴が空いてしまいます。2番目には小田原に程近いということもあり、小幡先を見たとしても1時間程で小田原からは駆けつけられます。覚悟しているから穴を空けています。なにぶん敵味方の諜報戦を仕掛けている状態ですから、どのようにしても部隊を重ねるでしょう。ともかく月会には諸部隊を小田原へ集結させる覚悟でおります。詳しい意図は重ねてお知らせします。

河村御城普請未熟之間、人足四人御雇候、来晦日ニ、右城へ相集、朔日早天より二日迄、両日可致普請、両日之雇賃百六十文、米を以於右城、安藤源左衛門代前より可請取之者也、仍如件、

九月廿六日

田名

百姓中

→戦国遺文 後北条氏編「北条家朱印状」(陶山静彦氏所蔵江成文書)

1571(元亀2)年に比定。

 河村城の普請が完成していないので、作業員を4人お雇いになる。来る月末に右の城へ集合し、1日の早朝より2日までの両日普請を行なうように。両日の賃金は160文、米で支給するので、城内安藤源左衛門代官より受け取るように。