遠江国山名郡石野郷内小野田村之事

 右、任本地致知行、御入国以来忠節仕条々、

一座生御城江信州一国罷立相攻候処、久野佐渡守及難儀半、属福嶋左衛門尉助春手彼城中ニ走入、励軍忠久野同前得勝利候、

一天方城敵相楯籠候時、久野并渋谷相共遂合戦、佐野小次郎討捕、其頸福嶋玄番允渡之畢、

馬伏塚敵可乗取支度仕候時、宗季最前彼城エ懸入、依助春令知之、企謀略之族則令出奔畢、

関東御進発御供仕、於武州立河原御合戦大利上軍功其一数候、

一三州江福嶋玄蕃允為助春代、罷立候時、令同心候、其後御進発之刻、御供仕、今橋城攻仁百余日尽忠功候、同於石巻之城、渋谷同前六十余日粉骨、無其隠候、以此条々下給御証判、可備後代亀鏡之旨、宜預御披露候、仍目安状如件、

永正七庚牛年三月廿日

本間源次郎宗季

披見申候(今川氏親花押)

→静岡県史 資料編10「本間宗季軍忠状写」(本間文書)

 遠江国山名郡石野郷内小野田村のこと。右、本領を任せ知行をし、ご入国以来忠節を行なってきた事柄である。一、座生城へ信濃国が国を挙げて共同で攻め立てたところ、久野宗隆が戦況不利になった際に、福嶋助春の部隊としてあの城に駆け込み、軍を励まして久野と共に勝利を得ました。一、天方城に敵が立て篭もった際、久野・渋谷と共に戦闘し、佐野小次郎を討ち取ってその首級を福嶋玄蕃允に渡しました。一、馬伏塚で敵が乗っ取りの準備をしていた際、宗季はすぐにその城へ駆け込んで助春に謀反を知らせた。謀略を企てていた輩は出奔した。一、三河国へ福嶋玄蕃允が助春の代官となり出立する際、同心となりました。その後ご進発の際はお供して、今橋攻城に100余日忠功を尽くしています。同じく石巻の城、渋谷でも同じく60余日粉骨したことは隠れもないことです。これらの事柄をもってご証判を下され、後代の規範である旨備えるようにと、宜しくご披露を預かりました。目安のことはこのようになっています。