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椙山陣考-7 余録

結局何が言いたかったかというと。

「椙山之陣」について検討してきたが、まとめると以下のようになる。

●「椙山之陣」の記載のある文書は類似文書の分布から改変された可能性が高い
●「椙山」の比定地は嵐山町以外にも複数存在しそれぞれ仮設が成立しうる

ということで結局「古文書から見てもよく判らない」が結論になってしまった。それも後ろ向きなので、「では嵐山杉山城は何なのか?」について、私自身の仮説も余録として書いておこう。

行ってもいない城についてあれこれ。

実はこの城は訪れていないので、よく判らない。『日本城郭大系』を見ると、「築城教本」といえるほど緻密な縄張りを持ち、屏風折りが特長だという。他のサイトの情報も参考にしてみよう。

埋もれた古城 ~杉山城~

「城攻めの訓練用施設だったのでは?」

このサイトでは城郭大系の「築城教本」から一歩踏み込んで、実際に訓練施設だったのではないかと指摘している。この仮説は充分にあり得ると思った。

長篠落武者日記 ~杉山城~

気がつけば横矢。そんな感じ。

なんか、築城者の執念を通り越した「情念」を感じさせます。
この城の築城に出役した住民にしてみれば、
「殿様も、ここまでやらんでもええんではないかのぅ・・・。」
と、思わずつぶやきたくなるんじゃないでしょうか。

『長篠落武者日記』のうらにわ氏は2012年に訪れ、周辺の松山城、鉢形城との比較を体験に基づいて生々しく紹介している。特に、辟易するほど手間をかけておきながら伝承が残らない点に地域領主不在を推測しているのは卓見だと思う。

どちらの訪問者も凝った縄張りを記している。だが、杉山城はそれほど大きくない城だった筈だ。

近隣の城郭の面積を比較してみる。

それぞれはWeb上の情報などから取り込んだので正しいかは不明だが、大体の広さは合っているように見える。

※以下単位はヘクタール

相模・小田原348(惣構概算/国指定史跡範囲は24)
武蔵・八王子154(国指定史跡範囲)
武蔵・滝山132(国指定史跡範囲)
武蔵・川越32.6(近世最大拡張時)
武蔵・鉢形24(国指定史跡範囲)
伊豆・山中城20(城跡公園敷地/国指定史跡範囲は11.7)
武蔵・松山16(県指定史跡範囲・主郭部)
武蔵・岩槻14.5(城跡公園敷地)
武蔵・菅谷13(国指定史跡範囲)
武蔵・勝沼12(都指定環境保存地域)

武蔵・杉山7.6(現地看板/国指定史跡範囲は13.6)

武蔵・滝の城6.6(城跡公園敷地)
相模・石垣山城5.8(城跡公園敷地)
武蔵・片倉5.7(城跡公園敷地)
武蔵・茅ヶ崎5.5(城跡公園敷地)
武蔵・小机4.6(城跡公園敷地)

小田原・八王子は国内でも特殊な例、川越は近世のものとして比較対象から除外した方がいいだろう。後北条一門衆の居城である鉢形・岩槻も外すと、比較対象になりそうなのは、残存状態が良好で縄張りの複雑な滝山と山中になる。

滝山132ヘクタール(13曲輪・11虎口)
山中20ヘクタール(11曲輪・12虎口)
杉山城7.6ヘクタール(10曲輪・10虎口)

曲輪と虎口の数は私が縄張り図を見て大まかなところを書き出した。このように比較すると、杉山城は面積の割に縄張りが複雑過ぎるといえる。近隣の菅谷城だと面積は2倍近いものの曲輪5の虎口7でしかない。

一方で、狭い範囲の凝った縄張りとして似た存在に石垣山城があり、こちらは実戦よりは威嚇を目的としている。このため、杉山城にも戦術以外の目的があったと考えた方が合理的だ。であるならば、やはり築城モデル説は可能性が高いと個人的には思う。

では、誰がいつ作った?

非常に凝った作りのくどい縄張り。訓練用に城が作れるほどの、地域領主より大きな権力。私が見た範囲に限定されるが、古文書から見ると杉山城築造者と思われる人物が思い当たらなくもない。

北条氏政、岡本越前守に、其城普請の不備を糺す

この文書、実は私が初めて解釈を試みた思い出深いものだが、それはさておき。岡本越前守政秀は何故高度な築城計画を氏政に提示できたのかという点に着目したい。政秀はもともと門松奉行だった。それが、1581(天正9)年前後に築城関連の氏政側近となっている。にわか作りの技術官僚といったところか。この書状で氏政は、過剰な工事をした政秀を激しく叱っている。緊急時の築城では必要なものだけを作れ、ということらしい。では、政秀はどこで「高山之上ニ付芝」や「井ツゝなとをふしん」を学んだのだろうか。「くゝり木戸なと」は「小田原にてさへ一二ケ所より外無之」という代物だ。後北条の本拠である小田原城を上回る、非常に精巧なモデルを元に設計したと考えられないだろうか。そのモデルは、高低差のある斜面に芝を植え、立派な井戸を持ち、くぐり木戸も多数持っていた。しかも、小田原より小規模だった(政秀が怒られた城は、「明後日には引き払って戻って来い」と言われる程度の小規模なもので、だからこそ氏政が「小田原にてさへ」と引き合いに出したものと思われる)。

政秀が手本にしたのは杉山城だとすれば、諸々納得がいく(杉山城は多数の虎口を持ち、井戸曲輪もある)。

隠居となった1580(天正8)年以降、氏政は政治の表舞台から遠ざかる。その頃に杉山城を築造し、現物の築城教科書にしたのではないか。訓練設備なら、曲輪内は簡易な宿泊施設があっただけだろうし、什器が古いのも納得がいく。また、燃やされて廃棄されるのも容易だろう。

地域的には、北条氏康・氏照・氏邦が候補者でも構わない筈だが、城郭への拘りが最も高いのは氏政だ。氏政書状のこだわり部分を抜粋してみよう。

北条氏政、松田尾張守に土塁の構築方法を指示する

殊小わり共ニ候間、一間之内にて人ゝ之手前各別候者、必合目より可崩候

土塁を複数人で構築する場合に、担当エリアの接合部は脆くなるという点を指摘している。細かい。ここまで大名が関与するものかという気がする。

北条氏政、猪俣邦憲に上野国権現山の普請難航の事情を問う

如何様之品ニ候哉、委細ニ成絵図、重而早ゝ可申越候、一段無心元候

「何で普請が遅れているんだ」と問い詰めつつ、状況を図面で提出せよと言っている。政秀を叱責した際の「積=計画書」のようなものだろうか。

北条氏政、猪俣能登守に上野国沼田城の重要性を説き備えを厳にさせる

普請者、猪俣自身鍬を取者、其地ニ普請せぬ者ハ有間敷候

同じく猪俣邦憲宛てで、普請のコツを伝授している。「城主が鍬を持てば全員が作業せざるを得なくなる」というのは、自分の経験を語っているような感じがする。

「適当な山を自由に使って、自分の好きな縄張りで城を作る」というのは、城郭に興味のある者なら現代でも夢想することだと思う。それを実地で行なう素地が氏政にはあったように見える。

以上から、今後の史料や発掘データ次第では、氏政による築城教本説も考慮していきたい。

コメント 2

  • 😯 ホンマどすか!?
    現代の小田原でも、堀をはじめとする氏政時代の遺構は、その性格を表しているかのようにクッキリ&キッチリしているとおっしゃっていました。
    杉山城はモデルルームのようだとも言われていますが、もし氏政が隠居後に自分の好みを集約した城見本を作ったとしたら・・・なんとなく、足利義政を思い出してしまいました。

    • コメントありがとうございます。

      氏政教本説で1つ説明がつかないのが「何故障子堀がないのか?」という点です。大坂冬の陣で障子堀は実戦性能が証明されていますから、ノウハウは開示すると思うんですよね。また、小田・騎西・小金・岩槻・鉢形・相模新城・小田原・山中と、自身かその息子関係の城で多用され氏政お気に入りだったのに(鉢形は除く)。

      そうなると、滝山・八王子などで畝堀・障子堀を用いなかった氏照の存在も少し気になります。杉山城の馬出は滝山城に少し似ているような気もしますし。

      まあ何はともあれ現地に行ってから改めて考えてみようと思います。

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