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検証a12:鳴海開城はいつか?

岡部五郎兵衛尉が鳴海を出て、合戦が収束したのはいつかを考察する。まず、各文書を時系列でまとめてみる。
 合戦後最も早い文書は、5月22日に三浦内匠助が松井山城守に宛てたものだ。「去十九日、於尾州口不慮之御仕合、無是非次第候」とあるので、駿府では少なくとも22日には事態を把握していた。引き続き5月25日の天野安芸守宛て書状では、「今度不慮之儀出来、無是非候、然者当城之儀、堅固申付之由喜悦候、軈而可出馬候」とあり、守備を命じる一方で氏真の出馬も示している。この間は前線各拠点に連絡を出して善後策を練っていたのだろう。この時点ではまだ戦闘状態は解除されていなかったと思われる。
 そして6月8日、今川氏真は鳴海城を死守し、刈谷城の水野藤九郎を討ち取った岡部五郎兵衛尉を褒める。「今度尾州一戦之砌、大高沓掛両城雖相拘、鳴海堅固ニ持詰候……(中略)……剰刈谷城以籌策城主水野藤九郎其外随分不(己+大)他也」。この段階で鳴海を氏真の命令で退去していることが判る。それを追うように、6月10日佐久間信盛は伊勢内宮に今川義元を討ち取ったと報告する(「今度就合戦之儀、早々御尋本望存候、義元御討死之上候間、諸勢討捕候事、際限無之候」)。ここで戦闘の決着が語られるようになる。
さらに6月12日には鵜殿十郎三郎へ大高付近での戦功を賞する書状が出される(「去年十一月十九日、去五月十九日於尾州大高口、両度合戦之時」)。そして、岡部氏には6月13日に武田晴信より書状が発行される(「抑今度以不慮之仕合、被失利大略敗北、剰大高、沓掛自落之処、其方暫鳴海之地被踏之其上従氏真被執一筆被退之間」)。
 鳴海城を死守し、帰途刈谷城を攻略して帰還した岡部五郎兵衛尉への書状は、今川氏真が6月8日、武田晴信が6月13日。噂を聞いた晴信がすぐに甲府から書状を出したとして、5日の空白は少し長過ぎる気がする。岡部氏の駿府到着は10日前後だったのではないか。
 とすると、氏真の書状は帰途にある岡部氏に対し出されたものかも知れない。刈谷城攻略に見られるような軍事活動を行ないつつ、敗兵を収容しながらゆっくりと東進した可能性もあるからだ。逆算してみよう。駿府・鳴海間は大体2日あれば通信可能だと推定して考えてみる。

  • 6月13日 甲府に岡部隊帰着の報が入り、武田晴信起筆。
  • 6月10日 岡部隊駿府帰着? 佐久間信盛が戦果を報告。
  • 6月08日 氏真、岡部五郎兵衛尉の功績を起筆。
  • 6月07日 氏真、刈谷攻略の情報を得て岡部氏所領回復処理。
  • 6月05日 刈谷城攻略?
  • 6月04日 鳴海開城?
  • 6月03日 氏真の開城命令到着?
  • 6月01日 氏真が開城命令を起筆?
  • 5月25日 氏真は前線の天野安芸守に出馬を告げる。
  • 5月19日 義元討ち死に。

 5月19日~6月03日までは鳴海近辺では戦闘状態が継続していたことになる。つまり、5月19日の合戦後、鳴海城は10~15日間籠城を継続したという仮説になる。
 これを裏付けるのが、6月10日に書かれた佐久間信盛の戦果報告である。5月19日に圧倒的勝利を得たと思われるのに、21日も寝かせてから伊勢に書状を送っている。伊勢からの問い合わせは合戦後すぐに来ていたと思われるから、なおさら奇妙に感じる。
 その理由として、鳴海攻略が長引いた上、置き土産として水野藤九郎討ち死になどの混乱があり、その後始末がついて落ち着いたのが6月10日だった……という筋書きが考えられる。
 以上の事案から、沓掛・大高ともに即日降伏したのに比べて鳴海は半月を耐えしのいだ状況が把握できる。

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