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上田長則の親心

松山城主の上田長則が、元服したてと思われる木呂子新左衛門に宛てた文書を紹介した。「親の苦労(後見?)で最初は奉行するものだが、木呂子家は代々の近臣だから特別に扱う」と書いているので、新左衛門は父を失って幼くして元服、相続したように見える。

新左衛門は大塚という知行地を与えられているが、その見返りとして税金と労働力を主家に提供しなければならない。これは他国(他の大名家)でも同じだとしている。若い新左衛門に配慮して、戦国の世のルールを手ほどきしているような印象がある。

それと同時に出されている朱印状では「これは内緒だけど、無理せず可能な範囲でいいのだから」と助言している。大人の世界には厚かましさも必要だから頑り過ぎないようにと。

長則はこの翌年3月に50歳で死去。跡を憲定が継いでいる。『改訂版 武蔵松山城主上田氏』によると、長則は嫡流であったものの父を早くなくし、当主を継いだ叔父朝直(宗調)に育てられたという。憲定は朝直の実子だったようで、それなりに複雑な係累を持っている。その境遇もあってか、内密の朱印状まで与えて守ろうとしたのは、幼い日の自分と新左衛門が重なったからだろうか。

ちなみに新左衛門は小田原合戦時松山城を預けられるものの開城する。その後は名主になったようで、享保4(1719)年の新田開発に『木呂子新左衛門』と子孫の名が出ている。

ここで1点重要な疑問点が出てくる。徴税義務があって軍事力の提供義務がないということは、大塚郷代官でしかないのだろうか。他の松山衆を見てみないと判らないが、少し様子が違うようだ。

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