1584(天正12)年比定の「後北条家朱印状」によると、宇津木氏が新規に雇うことになった鉄砲衆10名の費用86.67貫文のうち、28貫文分が紬20反への割り当てとなっている。
此内
拾五貫文
拾たん 上紬
拾三貫文
拾たん 中紬
已上 弐拾八貫文
紬は恐らく木綿(当時最新鋭の軍需物資)で、上・中というランクがあったのだろう。上・中を混ぜて2着縫製したのか、上で1着・中で1着としたかは不明だが、これらの紬は銃兵用に後北条氏が確保していたかも知れない。それにしても、紬の経費は人件費全体の32パーセントを占める。銃ではなく衣類原材料の指定、しかも上紬と中紬の明細も示されている点が特異に思われる。
過去の鉄砲衆経費を比べるてみよう。1569(永禄12)年の「北条氏政判物写」によると、歩鉄炮20人が100貫文で雇えるとされている。
百貫文 歩鉄炮廿人
ということで、15年で経費が173パーセントに膨れ上がっていることになる。ただ面白いことに、増額分の36.67貫文の殆どは紬の価格(28貫文)となる。元亀年間以降の銃兵にとって紬織りの衣類が最も重要だったと考えてよいのではないか。
ちなみに「北条氏康書状」で、取り扱い・保管が難しい弾薬を直前に大名から支給していることが確認できる。
仍鉄炮薬玉進之候、猶用所付而重而可進候
そもそも銃自体が整備を怠ると使い物にならないため、弾薬も含めて大名が直接管理していた可能性もあるが、それを示す具体的な史料がないので何とも言えない。
何れにせよ、銃兵の実態を考える上で各種支給品に注目したいと思う。