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旧暦5月22日

 6月25日は旧暦5月22日に当たる。この日、氏真側近の三浦正俊によって初めて鳴海原合戦が語られた(三浦正俊書状写)。ここでは「不慮の巡り合わせ」としてのみ記され、松井左衛門佐(宗信)が奮戦して行方不明になったと語られている。
 三浦正俊は、今川義元書状写によれば、まだ竜王丸と名乗っていた段階から氏真の守役筆頭であり、義元敗死直前の4月24日には丸子宿への伝馬規則確認書で氏真から確認担当者として名指しされている人物。
 この動きは突発的・私的なものではなく、2年前から始動している氏真政権が、この状況に正式対応を始めたと考えてよいだろう。正俊は「被思食御感候、就其被成御書候」と書いていることから、氏真がこれに先行して書状を発行していており、正俊が氏真書状を中継する際に添え状として本文書を書いたようだ。
 宛所の松井山城守は、左衛門佐の父貞宗であり、集められる人質として貞宗の妻(宗信妻の可能性もあり)が指名されている。
 義元・宗信ともにこの時点では死去しているが、今川方はまだ把握していないか、公にしていない。状況は混沌としている……。

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