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武田勝頼、小笠原信嶺に、三河国長篠在城料として遠江国井伊谷を与える

 定
長篠在城之儀、自法性院殿被仰付候処、有応諾、則被相移候、於勝頼も祝着候、仍為在城料井伊谷相渡候、但以御先判拘来候分者、一切可被停綺、然而其方へ渡置候於井伊谷之内、小笠原左衛門尉・同日向守・常葉常陸守・同名安芸守四人へ、別而知行可有配当事肝要候者也、仍如件、
元亀四年[癸酉] 七月六日
 勝頼(花押)
小笠原掃部大夫殿

→静岡県史資料編8 640「武田勝頼判物」(小笠原文書下)

 定め書き。長篠に在城する件。武田晴信より仰せになっていたところ、承諾がありすぐにお移りになりました。勝頼においても祝着です。よって、在城料として井伊谷をお渡しします。但し、先の判形を持っている者へは一切異議を言わないこと。そしてあなたへ渡した井伊谷のうち、小笠原左衛門尉・同じく日向守・常葉常陸守・同名の安芸守の4人へは特別に知行を配ることが大切です。

コメント 5

  • 古文書を長く学び、歴史と古文書を一つにした古文書講座を開講しています。今回は、古文書選から武田勝頼の判物を選びました。
    既に、この判物が書かれた頃、信玄は死亡されていますが、信玄は、生存中、長篠在陣の命令を小笠原掃部守に命じており、改めて勝頼が、この判物を出したのでしょうか?
    宛先の小笠原掃部大夫は、信濃府中小笠原氏、小笠原信嶺と解釈していいでしょうか?
    又小笠原左衛門尉は、どんな人物でしょうか?同日向守、常葉常陸守、同安芸守についても教えてください。
    武田家の文書は、受講生にも人気があり、取り上げると好評です。
    宜しくお願い致します。松永恵子

    • コメントありがとうございます。

      小笠原掃部大夫の実名が信嶺なのは1572(元亀3)年の書状(愛知県史資料編11_827)で「小笠原掃部大夫信嶺」と自署していることからほぼ確実かと思います。また、信嶺はその関係文書から松尾小笠原氏だろうと考えています。ただ松尾小笠原氏は左衛門佐の官途を名乗っていたので、信嶺は嫡系ではなく、他の小笠原氏から養子になったのかもしれません。

      「小笠原掃部守」については史料がないので判りません(甲斐武田氏は詳しくないので……)。

  • 元亀4年武田勝頼の判物について教えて下さい。
    この判物の宛先、小笠原信嶺でいいでしょうか?
    又、小笠原左衛門尉など、4人の人物について、人名やどこの領主か、もしくは小笠原信嶺の家臣か
    わかる範囲で教えて下さい。
    宜しくお願い致します。

    • 続けてご回答します。

      小笠原左衛門尉と日向守は松尾小笠原氏の一門だろうと思います。信嶺先代が名乗っていた「左衛門」系の官途を名乗っている点から、左衛門尉はかなり近い親族ではないかと推測できます。

      常葉氏は1506(永正3)年の瀬名一秀書状(戦国遺文今川氏編173)で「常葉刑部丞」が登場し、小笠原左衛門佐への取次となっています(個人的には北遠か南信の勢力かと考えています)。

  • ご丁寧に教えて頂き有難うございました。
    信玄亡き後、長篠在城を命じた、勝頼の判物が、理解できました。
    ただ、家康にすぐ奪回されたようですね。長篠の戦いも最近は、uチューブで、臨場感をもって見ることができます。一度、北信濃、諏訪や飯田市に出向き、歴史を訪ねたいと思います。おかげさまで、受講生の皆様によくお伝え出来るような気がしてきました。本当に有難うございまさした。松永恵子

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