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補2:紀州に残された笠原文書

笠原新六郎政晴宛ての徳川家康書状写 が戦国遺文の後北条氏編に載っているのだが、出所が「紀州藩家中系譜」とある。

この度高天神の一陣で契約が整い、大慶に終わった。とりわけ協議していた趣旨に同意し満足です。このお気持ちをねぎらうため、刀1腰、岩切丸をお贈りします。さらにご連絡を期します。

笠原政晴は僧になったとも、小田原で処刑されたとも言われているが、遺児が紀州家にでも仕官したのかと不思議になった。

ということで、和歌山県立文書館が刊行した『紀州家中系譜並に親類書書上げ』を閲覧してみたところ、どうも胡散臭い感触……。

この書籍は、紀州家の家臣を表で列挙してくれている。まず政晴の本姓である松田家も存在したものの、別の家である可能性が非常に高かったため転記から外した。一方、政晴が陣代を命ぜられた笠原家は、後北条家臣だった家と相関性が見られた。

3530 親 笠原 祖:助左衛門 父:助左衛門 提:助右衛門
奥付に[文化十二年亥何月 笠原新六郎]の雛形付箋あり。表紙・後表紙欠。文化元・4

3531 親 笠原新六郎 大御番 祖:助左衛門 父:助左衛門 惣:新一郎 提:新六郎政戴 文化14・5

3523 系 笠原新一郎 大御番 元:助左衛門氏隆→2:助左衛門氏則→3段右衛門景任→4新六政起(隠居静久)→5藤左衛門政晨→6新左衛門正武→7助左衛門正備→8助左衛門政種→9助左衛門政戴(隠居休道) 提:新一郎政勝 天保6・2

※冒頭の数字は資料番号。末尾は提出日。「親」は『親類書』、「系」は系譜書を指す。また、「提」は提出者のこと。

文化・天保というと近世もだいぶ後半だ。まず注目したのは、そのものずばり「笠原新六郎」がいるという点。提出者は新六郎政載で、仮名が同じであって諱の通字「政~」も同じである。この18年後に出された同家の先祖書きがあり、それによるとこの家の初代と2代目は助左衛門を名乗っているのは同じで、通字は「氏~」。3代目でどちらも該当しない人物が入る(養子?)。4代目からは「政」か「正」を通字に統一している。仮名は新六郎に近しい「新六」の後に、笠原康明と同じ藤左衛門となり、以降はまた助左衛門に戻されている。

実はこの記述、混乱している。新一郎政勝が提出した先祖書きには9代目として前述の政載がいる。以前政載本人が提出した際には自身を「新六郎」と名乗っていたが、(恐らくその息子であろう)新一郎政勝の先祖書きではあっさりと「助左衛門」になっている。ここはよく判らない。

他家史料でいうと、松坂城主だった古田家が1615(元和元)年に国替えとなり同城が紀州家預かりとなった際に、大藪新右衛門尉・井村善九郎とともに笠原助左衛門が接収に赴いている。恐らく初代か2代目の助左衛門だろう。

何れにせよ、助左衛門という名は後北条家臣の笠原氏には見えない。近しいところでいうと康明の近親と思われる助八郎はいるものの、史料が限られていて係累は不明。

そうなると前掲の徳川家康書状写も怪しく思えてくる。

今度高天神之一陣契約相整、令大慶訖、就中申談意趣被及同心満足候、依之為労芳志、刀一腰岩切丸贈之、猶期後音候、

家康の高天神攻めは、わざと時間をかけて「勝頼は後詰しない」ことを立証する緩やかな戦いだった。この戦いで家康が喜ぶほどの契約とは何かよく判らない。また、太刀を贈る場合には銘を記すのが通例なのに、わざわざ「岩切丸」と書いている辺りも奇妙だ。

ちなみに、下記のサイトで笠原政晴の墓についての記述がある。

松田家の歴史

44ページ

笠原政尭は笠原隼人佐とも言われ、1626年60才で病没したと言い伝えられている。墓は三島市東本町1丁目の法華寺にある。その墓の表には「笠原院春山宗永居士」と刻し、その裏面に「笠原助之進延宝七年(1679年)霜月六日建」とある。

「助之進」という仮名から、紀州家中の例の笠原家が関連しているような感じだ。本来関係のない笠原氏だったのを、歴代の誰かが「笠原新六郎こそ我が祖」と言い出して墓を建立したのではないだろうか。

ひとまず、充分に検討を要する伝承であることを記しておく。

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