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検証a37:今川義元文書分布

今川家文書分布の中から、義元のものだけで抽出した。

義元の場合、三河国への文書によって傾向が窺える。概観すると1550(天文19)年をピークとする山と、1556(弘治2)年の山とに分かれる。天文末年には三国同盟が成立して、東から西へと戦略方針が転換するためだろう。その一方、1559(永禄2)年以降は大きく発給数が落ち込み、没する永禄3年には2通しか見当たらない。弘治2年のピークが何か要因になっているかも知れない。

ちなみに、永禄2年の三河国宛文書は、白山先達の訴訟を巡る財賀寺関連のものだけで、国衆に宛てたものは存在しない。同年の尾張宛は、大高補給と出陣予告となっているのと対照的ではある。

今川義元書状分布
駿河 遠江 三河 尾張 その他
天文5年 20 7 0 0 1 28
天文6年 3 3 0 0 1 7
天文7年 4 2 0 0 0 6
天文8年 9 8 0 0 0 17
天文9年 2 9 0 0 1 12
天文10年 1 7 0 0 1 9
天文11年 11 7 0 1 0 19
天文12年 9 8 0 0 3 20
天文13年 12 5 0 0 1 18
天文14年 7 1 0 0 0 8
天文15年 2 0 2 0 1 5
天文16年 2 4 9 0 0 15
天文17年 6 1 8 0 0 15
天文18年 7 1 13 0 1 22
天文19年 8 6 16 0 0 30
天文20年 20 5 12 0 3 40
天文21年 19 10 10 0 1 40
天文22年 8 2 7 0 6 23
天文23年 5 3 14 0 1 23
弘治1年 7 3 10 0 1 21
弘治2年 10 3 28 0 4 45
弘治3年 11 6 16 1 1.5 36
永禄1年 4 1 17 4 1 27
永禄2年 2 3 3 3 2 13
永禄3年 1 1 0 0 0 2
190 106 165 9 31 501

グラフ

imagawa_monjo2

コメント 1

  • […] 義元の文書分布を見ると、永禄元年4月頃から減り始め、同2年5月から不自然な程に発給数が減っている。また、義元の感状発行日数で考察したことを合わせて考えると、この頃から義元は西三河の前線にいたのだろう。永禄3年3月に一旦駿府に戻った形跡があり戦国遺文では3つ記録が残されているが、同月20日に関口氏純が「近日義元向尾州境目進発」と書いたのを最後に記録は途絶える。正式な家督継承はなかったと見えて、氏真の文書はまだ少ないため、この時期の今川分国は行政不在に近い状況になっていたようだ。 […]

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