コンテンツにスキップ

今川義元、水野十郎左衛門尉に織田軍との合戦の状況を知らせる

先度以後可申通覚悟処、尾州当国執相ニ付而、通路依不合期無其儀候、其御理瓦礫軒安心迄申入候、参着候哉、仍一昨日辰刻、次々■朝倉太郎左衛門、尾川州織田衆、上下具足二万五六千、惣手一同至城下手遣仕候、此方雖無人候罷出、及一戦織田弾正忠手江切懸、数刻相戦、数百人討捕候、頸注文進之候、此外敗北之軍兵、木曽川へ二三千溺候、織田六七人召具罷退候、近年之体、隣国ニ又人もなき様ニ相働候条、次勝負候、年来之本懐此節候、随而此砌松三被仰談御国被相国尤存候、猶瓦礫軒可有御演説候、可得御意候、恐惶謹言、

九月廿五日

義元

水野十郎左衛門尉

   人々御中

→静岡県史「今川義元書状写」(古簡雑纂七・水府明徳会彰考館所蔵)

 ご連絡しようと考えていましたが、尾張国とこの国で戦闘があったため、通信がうまくいきませんでした。瓦礫軒と安心軒に説明を頼みました。到着しましたでしょうか。さて一昨日辰の刻、次々(?)朝倉太郎左衛門、尾張国織田衆、将官から兵士まで2万5~6000人が城下に一斉来襲しました。こちらは寡兵でしたが出撃し、織田弾正忠の部隊へ切りかかりました。数刻戦闘して、数百人を討ち取りました。その首級リストをお送りします。このほか敗兵は木曽川で2~3000人が溺れて、織田弾正忠は6~7人に守られて退却しています。ここ数年は、隣国へも傍若無人に荒らしまわっていたので、次いで決戦します。年来の本懐はこの時です。このような折、『松三』(松平三蔵?)へお話いただき、あなたの国をしっかり固めるのが大切です。さらに瓦礫軒が申し上げるでしょう。お心に添いますように。

長井久兵衛書状と文面が酷似しているが、こちらが差出人を誤写したものと思われる。木曽川が戦場となっている点と斎藤利政書状が関連することから判断。

コメント 15

  • 高村様
     はじめまして、水野氏史研究会世話人の水野青鷺(∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」の管理人兼務)と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
     貴ブログは以前から屡々拝読しておりますが、沢山の史料解説を精力的にこなされており常々感服いたしております。
     『別本士林証文』にある「今川義元書状写」は、既に貴ブログに取り上げておられますが、今般は「今川義元、水野十郎左衛門尉に織田軍との合戦の状況を知らせる」史料を掲載され、この中でも「瓦礫軒と安心軒」の名が出てきますが、これらの人物について以前から色々調べましたが現在のところ未詳です。もしこの二人の人物についての史料がありましたらご教示いただけたら幸いです。
     猶 水野氏史研究会ブログで、会員二人の寄稿論文でも「今川義元書状写」を取り上げておりますので、ご高覧いただけたら嬉しく存じます。

  • 初めまして。コメントありがとうございます。水野さんのサイトはどちらもよく拝見しておりました。水野氏に関して様々な情報が集約されており、勉強になります。
    さてお尋ねの安心軒・瓦礫軒についてですが、安心軒関連史料を先程アップしました。この中で「松平蔵人佐と安心軒が在国の際……」という記述があります。また、長井氏書状では水野十郎左衛門宛書状を取り次ぎ、斎藤利政書状では岡崎(松平氏)への伝言を依頼されています。鵜殿長持書状では、織田信秀の飯尾豊前守宛密書を中継した事で譴責されています。
    上記から考えて、松平氏か水野氏のうち、隠居した当主ではないかと推測しています。但し、安城松平宗家は法号に『道○』という名前を使うのが伝統であり、書状でも名乗っています。このことから、水野氏の系統である可能性が若干高いのではないかと考えています。
    水野氏の隠居だとすると、水野近守がそれらしい人物として浮かんでいます。近守が安心軒だとするならば、瓦礫軒は息子と推測される守忠となるかと……。十郎左衛門は別系統の水野氏で、こちらが信元につながるとするならば、後に信元・元茂の親子が「水野家のしきたりを知らなかった」(https://old.rek.jp/index.php?UID=1194805459)ことも不自然ではなくなります。
    以上ご参考になりましたら幸いです。

  • 高村様
     早速ご教示いただき誠にありがとうございました。本日は早朝から出掛けており、お返事が遅くなって申し訳ありません。
     拙ブログ双方共にご覧いただいていたとは知りませんでした。歴史に関しては全くの素人が始めたものでして、間違いや不備が多々ありお恥ずかしい限りです。でも高村様のお目に止まったことは大変嬉しく思っております。
     さて、お示し下さった、牧野康成は、徳川家臣で戦国時代末期の三河国牛久保城主であり、松平蔵人佐は松平蔵人佐元康、つまり後の徳川家康のことだとすると、家康と安心軒が駿河国に居た時に、今川義元が決裁した書面を出しており異議の無いように……
    というように捉えてよろしいのでしょうか。
     それから、わざわざ安心軒関連史料をアップロードいだきありがとうございました。
    これらの史料から、安心軒は、あちこちの書状を取り次ぐため、各地を訪れ中々にフットワークの軽い人物と思われます。
     ここでもう一つ不思議に思っている事がありますが、それは書状なら臣下のものに託し宛所へ届ければ済むはずですが、この場合はなぜ「仲介役」を必要とするかということです。戦国時代はお互い疑心暗鬼になり、信用のおける人が仲立ちして直接書状を手渡さ無ければ書状の信憑性が疑われたのでしょうか。秀吉時代の書状になると、書状の中に詳細は誰々が申します旨が記され、書状を持参したものが口頭で述べているようですね。
    戦国時代のこれらの背景がよくわからず恥じ入る次第です。
     話が逸れましたが、安心軒は松平氏か水野氏のうち、隠居した当主ではないかとのご推測は、私の想像していた人物の範疇になく、なるほどと思いました。また、水野氏の系統である可能性が若干高く、水野氏の隠居だとすると、「水野近守」がそれらしい人物で、近守が安心軒だとするならば、瓦礫軒は息子と推測される「守忠」となるかとのご推測をお示しいただきましたので、これを元にまた色々と考えてみたいと思います。
     お忙しいところ、ほんとうにありがとうございました。

  • 再びのコメントありがとうございます。ささやかながらもお力になれましたようで、嬉しく思います。若干補足させていただきますね。
    松平蔵人佐に関しては、該当文書の日付が1546(天文15)年であることから松平信孝である可能性が高いと考えています。『三河松平一族』によると、信孝は1543(天文12)年に広忠名代として駿府を訪れた際、広忠から追放され、織田信秀を頼ります。1548(天文17)年に広忠に敗れて討ち死にしますが、彼は1537(天文6)年より蔵人佐を名乗っています。
    書状を仲介する人物に関しては『戦国のコミュニケーション』に詳しく書かれています。北条氏康が白河氏へ宛てた書状は、北条綱成・結城政勝を経由して添状をつけながら送られています。これと同様に、長井氏から水野十郎左衛門に宛てた書状は一旦安心軒の元に送られたと考えています。取次ぎ役を経ることのメリットとしては、中継地点の確保で到達確度を上げる・取次ぎ役の意見も添状につけることで客観性を高める、ということが挙げられます。
    以上ご参考まで。これからのブログ更新を楽しみにしております。[にこっ/]

  • 高村様
     補足のフォローアップをいただきありがとうございました。
    松平蔵人佐について私の人物比定か疎かでした。ご丁寧にご教示いただき恐縮です。
     また、『戦国のコミュニケーション』の書籍の存在も知りませんでした。取次ぎ役の意見も添状につけることで客観性を高めるという利点は、廻し手形に裏書が多いほど、その約束手形の信用度が高まることと相似ておりますね。早速取り寄せて読んでみます。重ね重ね御礼を申し上げます。
    それから前のコメントに書き忘れましたが、水野近守については同名で二人以上存在していたと考えており、とかく謎の多い人物です。しかしながら、貴ブログタイトルの――
    Truth is the daughter of time.
    「真実は、今日は隠されているかもしれないが、時間の経過によって明らかにされる」
    に従って、いずれの日にかは、安心軒と瓦礫軒の人物比定ができるようになることでしょうね。(^^)
     これからもちょくちょくお邪魔いたしますので、どうかよろしくお願いいたします。
    猶猶 先ほど貴ブログを∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」にリンクさせていただきましたのでご報告いたします。

  • 水野近守に関しては、一次史料に現われる人物と重修寛永家譜に記される忠政子息とが存在していると把握しています。寛永家譜の近守は没年記述が既に矛盾しており、改竄された可能性が高いのではないかと推測しています。
    テーマとして掲げている『真実は時の娘』は、ジョセフィン・ティーの歴史推理小説『時の娘』から採っています。この本ではリチャード3世の本当の姿を小説仕立てで検証しており、非常に感銘を受けました。営々と一次史料を積み重ねることで、少しずつ史実に近づければと念じて記しています。
    リンクありがとうございます。地味なサイトですが今後もどうぞ宜しくお願いします。ちなみにサイト名は『歴探 』でお願いできれば嬉しく思います。[にこっ/]

  • 高村様
     リンク先名で、貴ブログのお名前を間違えて記入しており、たいへん失礼いたしました。先ほど修正いたしましたのでお許し下さいませ。m(__)m
    大学のサークル「歴史研究会」略称「歴研」に少々関わりがあり、つい指が滑ってしまいました。(^^;
     今から出掛けますので、用件のみで失礼いたします。
     

  • 早速のご対応ありがとうございます。
    水野一族については、忠重が池鯉鮒でいきなり殺された件が非常に謎だと思っています。いつか水野さんのサイトで解明されたらいいなあと(他力本願ですが)願っております。
    今後もどうぞ宜しくお願いします。

  • 高村様
     昨日は、出掛ける前の慌ただしさの中でコメントしましたので、簡単な内容で失礼しました。
     私事で失礼ながら、小生は本日で通信歴が満20周年となりましたので、先ほど拙ブログに皆様への御礼の記事をアップしました。(^^;
     さて、水野近守の没年記述が改竄された可能性が高いとのご推測については、私もこれから色々と調べていきたい課題です。また忠重が池鯉鮒でいきなり殺された件についても、諸説あり、こちらもぜひ解明していきたい課題です。
    それにしても、高村さんは「後北条氏」のみならず「水野氏」についても、貴ブログでかなり詳しく言及され、各ポイントを鋭く突いておられることに常々感服いたしております。高村さんは、水野氏に強い関心を持って居られますので、今般のご縁で、ぜひとも「水野氏史研究会」のメンバーとなって、水野氏についての研究成果や貴意をご投稿いただいたり、またコメントを書いていただけたら大変嬉しく存じます。会員は何ら義務はありませんし、また会費等もなく無料です。ご検討の程よろしくお願いいたします。m(
     貴テーマとして掲げておられる『真実は時の娘』について、丁寧なご解説をいただきありがとうございました。こんど本屋さんで観てみます。[にこっ/]

  • 研究会へのお誘いありがとうございます。お声がけ戴きまして光栄です。ただ、現在公私にわたって多用でして、このサイトも書き溜めた内容の定期更新のみになっております。
    もう少し手が空いてサイトの整理も出来ましたら、改めてご入会のお願いを申し上げます。その節はどうぞ宜しくお願いします。
    今後もどうぞ宜しくお願いします。

  • 高村様
     ご無理なお願いをし、お心を煩わせてしまい申し訳ございませんでした。
    水野氏史研究会の入会期限はありませんので、お手隙になられましたら、いつでもお申し込み下さい。
    貴webを、拙ブログ ∞ヘロン「水野氏ルーツ採訪記」には、ご存じのように既にリンクさせていただきましたが、この度は、水野氏史研究会にもリンクさせていただきましたのでご報告いたします。
    「会員のリンク集」にリンクできればよかったのですが、当面は「協力支援者のリンク集」に、貴webの「水野」で検索しヒットした状態で下記のようにリンクしました。
     また誤謬や不適切な字句があるといけませんのでご確認いただけたら幸いです。(^^;
    協力支援者のリンク集
    歴探 ●[古文書解読]南北朝~江戸初期のコアは後北条氏で「水野氏」も所収-高村さんのweb。

  • リンク内容確認いたしました。色々とお気遣い戴きましてありがとうございます。リンクの表記は正しいと思います。
    研究会のご活躍も期待しております。私は色々と立て込んでおりまして、本格的な考察をつけられ始めるのが来年になってしまいそうです。最近では史料漁りもままならない状況です。
    気長に頑張れればと思います。サイト内で誤訳・誤記ありましたら遠慮なくご報告戴けましたら幸いです。宜しくお願いします。

  • 高村様
     リンク内容ご確認いただきありがとうございました。
    また、これからも色々とご教示をお願いいたします。
     これから大学に向かいますので用件のみで失礼します。

  • 高村様
     このところ諸事に取り紛れ、書き込みが疎かになっており、コメントが遅くなって大変申し訳ありませんでした。
    ご教示いただきました『戦国のコミュニケーション』の書籍は、現在併読するものが多くて未だ第六話までしか読み進んでおりませんが、内容はとても興味深いものですね。どうもありがとうございました。
     また、安心軒・瓦礫軒については、その後、中世史の教授にお尋ねしましたところ、この当時「軒」のつく号は、おそらく禅僧であろうとのことでした。『戦国のコミュニケーション』の六話にも「使僧」として登場しており、水野信元の時代であれば緒川の菩提寺である乾坤院か、刈谷の菩提寺である楞厳寺の僧が使者に立ったのではないかと推測されます。これを調べるにはかなり時間が経かかりそうですが、取りあえず進捗状況のご報告をいたします。今後ともどうかよろしくお願いいたします。

  •  ご無沙汰しております。私も諸事に紛れサイトの整備も滞っておりました。水野氏研究会サイトでのご活躍、感服しながら拝読しております。
     さて、安心軒・瓦礫軒が禅僧だったのではないかとの書き込みありがとうございます。乾坤院・楞厳寺ともに曹洞宗なので、軒号を持つ僧というご示唆は大変参考になりました。両寺の資料なども含まれると思われる『愛知県史 資料編10』が出ましたら私も確認してみます。さりながら、逍遥軒を名乗った武田信廉の例もあり、出家した武家の雅号・道号の線も引き続き視野に入れていこうと考えております。また、斎藤氏の厚礼ぶりや松平蔵人佐と併記される点から考えて、東条か西条の吉良氏という線も検討しようかと思います。
     情報ありましたら、今後も宜しくお願いします[にこっ/]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です