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カテゴリー «史観雑感»

旧暦6月16日

 7月19日(旧暦6月16日)は、氏真が簗瀬九郎左衛門尉に感状を発行している。  「今度当城堅固爾相踏、殊於両度遂一戦」と書いていることから当城がどこか不明だが、2度にわたって戦闘があった点が6月12日の鵜殿十郎三郎宛感 …

旧暦6月13日

7月16日は旧暦6月13日。この日、空梅雨から一転、長雨が10月まで降り続く冷夏となる。これ以降は、暑苦しい日照りの風景ではなく、一日中雨に降り込められる情景に切り替わることとなる。 この日「抑今度以不慮之仕合、被失利大 …

旧暦6月12日

 7月15日(旧暦6月12日)に、氏真が鵜殿十郎三郎に感状を発行している。  その内容は「去年十一月十九日、去五月十九日於尾州大高口、両度合戦之時」となっていて、前年11月のことと併せて、5月大高口での戦功を賞している。 …

旧暦6月10日

 7月13日、この日は旧暦で6月10日に当たる。この日に至ってようやく、織田方が合戦に関わっていたのではないかという史料が出てくる。  佐久間信盛が「今度就合戦之儀、早々御尋本望存候、義元御討死之上候間、諸勢討捕候事、際 …

旧暦6月8日

 7月11日は、旧暦でいうと6月8日となる。この日、義元が敗死した合戦に関わった岡部元信に宛てて、氏真が判物を発給している(今川氏真判物写)。  大高、沓掛が捨てられる中で、鳴海城を堅固に守ったと氏真は手離しで絶賛してい …

旧暦6月3日

 7月6日は旧暦6月3日となる。この日、徳川家康(松平元康)が禁制を発している(松平元康禁制写)。  崇福寺は岡崎と西尾(吉良)との間にあり、この地点で今川方部隊が駐屯、もしくは交戦とすると、岡崎か西尾が反今川方となって …

旧暦5月25日

 今日6月28日は、旧暦5月25日に当たる。この日は氏真が天野景泰に宛てて、緊急事態を告げている(今川氏真書状)。  天野景泰はどこかの城を守備していたようで、堅固に守ったことを賞されているから、臨戦体制にあったのではな …

旧暦5月22日

 6月25日は旧暦5月22日に当たる。この日、氏真側近の三浦正俊によって初めて鳴海原合戦が語られた(三浦正俊書状写)。ここでは「不慮の巡り合わせ」としてのみ記され、松井左衛門佐(宗信)が奮戦して行方不明になったと語られて …

旧暦5月19日

 1560年の旧暦(宣命暦)5月19日は、新暦(グレゴリオ暦)で6月22日となる。ちょうど450年前のこの日、今川義元が尾張国鳴海原で敗死した。当日付けで合戦の模様を語った史料はない。その詳細は、この後最初の一報が発せら …