北条氏政、毛呂土佐守が榎本城を獲得したことを賞し、子息の病気に配慮する
一翰具令披見候、榎本本意先以大慶候、小山落居歴然候、随而息左衛門丞煩平癒之由、大慶候、働前候間、別而養性可為肝要候、恐々謹言、 追而太方煩長病ニ者、更ニ難治候、但、近日者、少見直候、折角可有推察候、 七月八日 氏政(花押 …
一翰具令披見候、榎本本意先以大慶候、小山落居歴然候、随而息左衛門丞煩平癒之由、大慶候、働前候間、別而養性可為肝要候、恐々謹言、 追而太方煩長病ニ者、更ニ難治候、但、近日者、少見直候、折角可有推察候、 七月八日 氏政(花押 …
就太方様御煩、一翰祝着候、経年月極労候、更無頼候、雖然、於保養無由断候条、昨今少験気之分候、哀々取延度候、将又甲州無仕合之儀、無是非候、然共彼分国諸境目無異儀由候間、至于今日、当方迄之苦労ニ無之候、委曲期重説候、恐々謹言 …
北条氏政が、実母瑞渓院殿の看病を清水上野入道(康英)に命じたとされる書状だが、少しおかしな点がある。 「御太方御煩、経年月大病候間」御太方(大方)は瑞渓院殿を指す。年月を経て大病しましたので、とあるが瑞渓院殿が夫氏康と …
御太方御煩、経年月大病候間、更難治候、土用中極ゝ養性候、無少験気候、此上も勿論於保養者、少も不足有間敷候、恐々謹言、 六月廿三日 氏政(花押) 清水上野入道殿 →小田原市史 通史編 原始 古代 中世 別冊 小田原北条氏五 …
上杉輝虎の視点から関東出征を描いている。概ね合っていると思うのだが、後北条・今川を中心に調べている身からすると色々疑問がある。 ●氏真の塩荷抑留について永禄11年と比定しているが、永禄11年12月18日に駿河方面斥候とし …
『記憶の歴史学』(金子拓著・講談社メチエ選書)を半ばで止め『戦国北条五代』に切り替えていたが、再び読み進めている。 これはかなり挑戦的な内容だ。文献史学では、普通一次史料を疑わない。しかし、現代でもよくある事だが、記憶と …
とりあえず新たに仕入れた記述を備忘。 北条改姓は1523(大永3)年に氏綱から行なわれたが、氏康は大永5年まで伊勢姓のまま(100頁) 北条氏照は1555(弘治元)年足利義氏元服式で氏康と共に登場するのが史料初見(168 …
年来無足ニ而令奉公之間、新田領石原郷之内貮拾貫文被下候、弥厳密ニ可走廻者也、仍如件、 天正十五年[丁亥]八月二日[虎朱印]海保新左衛門 奉之 岡本越前守殿 →群馬県史 「北条家朱印状写」(安得虎子) 何年も無足で奉公し …
猪能所へ注進状披見候、助太郎相挊付而、去三日沼田東谷押替候、取出以不慮之行、打散悉放火、人馬貮百余討捕、首打捨五十余之内、鼻験八、其外分捕等ゝ紙面見得候、誠心地好面ゝ挊之所無比類次第候、則小田原へ注進状令進上候、弥境目無 …
注進状披見、仍去十九、従館林古海へ相動候処、追崩敵数多討捕之由、誠心地好仕合候、弥無油断可相稼候、将又佐竹様ゝ悃望之間、令赦免、今日為除候、謹言、 七月廿三日 氏直(花押) 大藤式部丞殿 →群馬県史 「北条氏直感状」(東 …