三と六の衝撃
かなり衝撃的な記述が『戦国史研究』の最新号にあった。 写の字形をみると、三月の「三」の字が「六」に近い形に見える。おそらく「三月」はくずし字の形が類似する「六月」の誤写であろう。 戦国史研究第65号『御館の乱に関わる新出 …
かなり衝撃的な記述が『戦国史研究』の最新号にあった。 写の字形をみると、三月の「三」の字が「六」に近い形に見える。おそらく「三月」はくずし字の形が類似する「六月」の誤写であろう。 戦国史研究第65号『御館の乱に関わる新出 …
去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、被官神村喜六於鑓下鉄炮相放之段神妙也、弥可抽軍功之状如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1974「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) 去る24日 …
去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、被官小左近鉄炮相放走廻之段神妙也、弥可抽戦功之由可申付者也、仍如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1973「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) …
奥三河現地の情報を参考にさせていただいている『長篠落ち武者日記』で、菅沼定勝・定能・貞友の関係性を考究した記事が上げられていた(謎の文書 奥平貞勝と貞能親子の微妙な関係?)。筆者のうらにわさんは、1547(天文16)年の …
去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、相拘置牢人岩間和泉、蒙鑓疵三ヶ所走舞、遂討死之条感悦之至也、弥跡職於有之者、此旨可申聞者也、仍如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1971「今川氏真 …
去廿四日、引間口於孫妻河端一戦時、最前合鑓蒙鉄炮疵段感悦之至也、弥向後可走廻之状如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1970「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) 去る24日、引間口 …
以前にアップした菅沼伊賀宛の今川義元判物写にて、記事見出しとして「今川義元、三河国菅沼伊賀の寝返りを賞し、知行を安堵する」としていた。当時の私の解釈では、敵方に既にあった菅沼伊賀が、今川方についたと考えていた。ところが、 …
一 松崎籠城之衆足弱事、上郷償之在所并西条端、又寺内仁雖有之、改次第可成敗、若自然寺内不及手者、早速交名可有注進、即改其方江可相渡事 一 取出普請出来之上、猶々松崎城江出入可停止、縦雖為償之在所、使一人之外、一切出入、手 …
[朱印]定 一 九八郎子仙千代休息之時者、道絞娘同親類質物三人以上四人可置之、雖然仙千代牛久保江帰城之時者、親類質物弐人宛にて可為番替事 一 日近之近辺償、可為力量次第事 一 長九郎子長菊可拘置之事 右条々、所令領掌、仍 …
今川義元が奥平定勝の忠義を賞した文書について、私が当初試みた解釈で不明だった部分が、改めて検討した結果解明できたので、備忘として記しておく。 同去年配当形之厚分等之事 という文を「同じく去る年配当した形の『厚分』等のこと …