今川氏真、大村高信方の牢人大村刑部二郎が引間口孫妻河端で活躍したことを賞す
去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、拘置牢人同名刑部二郎、於鑓下弓仕之由神妙也、弥可走廻之旨可申状如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1972「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) …
去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、拘置牢人同名刑部二郎、於鑓下弓仕之由神妙也、弥可走廻之旨可申状如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1972「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) …
去廿四日、於引間口孫妻河端一戦之時、於鑓下走廻弓仕之段神妙也、此旨被官桜田彦右衛門ニ可申聞之状如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1975「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) 去る …
去十二日、三州御油口一戦之刻、走廻之段甚以感悦也、弥可抽軍忠之状如件、 永禄六[癸亥]年 六月五日 上総介(花押) 小笠原与左衛門尉殿 →戦国遺文 今川氏編1923「今川氏真感状」(小笠原文書) 去る12日、三河国御 …
今度三州過半錯乱、加茂郷給人等各致別心之処、財宝以下悉捨置云々、殊抽一身吉田エ相移令奉公段、甚以忠節也、然者陣夫一人并同名善四郎給拾貫文地、同三人扶持由雖申、各爾相尋随忠節之軽重遂糺明、重而可加扶助、并同名次郎兵衛抱来本 …
依田信蕃、遠江・駿河両国の軍勢が甲府に到着することを、柳沢宮内助に報ずるという文書について、収録した諸本(静岡県史・戦国遺文)では1563(永禄6)年と否定している。ところが、原文を読む限り不可解な点が多数あることに気づ …
加藤丹後守由井へ相移候之処、自由井無用之由候哉、就之可被任其意候、仍如令附与大蔵丞口上候、跡部二郎衛門尉小田原ヘ相移之上者、上口へ可出馬之旨申越候、雖然葛山方之覚悟、不聞届候間、下口へ可進陣候、猶御厨辺之義、先日以跡次如 …
去五月十二日、於三州御油口片坂不慮之一戦刻、先勢被押立之処、正俊於旗本、以一身覚悟遂一戦之上、敵令敗軍、然処随分者討捕、手負数多仕出之条、甚以粉骨無比類、因茲知行於三州境目参万疋、但此内於下方代官所畠銭之内万疋、永扶助訖 …
北条氏政、酒井伯耆守に、榎本参陣を褒め防戦を指示するの中で 今度当表隙入ニ付而、榎本ニ以三百之人数在陣可走廻由 という表現がある。「隙入」を当初「すきいる」=「隙を狙って入り込む」のように漠然と解釈していたが、以下の語義 …
去二月十八日夜、市野取出江乗入端城押破時、被官村田小伝次頸一討捕之畢、太以無比類、弥可走廻之段可申付状如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1977「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) …
去廿四日、引間口於孫妻河端一戦之時、被官森下吉内走廻、於鑓下弓仕之由神妙也、弥可抽戦忠之由申付之状如件、 永禄七年 三月二日 上総介 大村弥兵衛殿 →戦国遺文 今川氏編1976「今川氏真感状写」(御家中諸士先祖書) …