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今川氏真、冨永右馬助に暇を与える

去永禄十一年『戊辰十二月十三日駿』州錯『乱』、其砌、自奥津構令供、其『故兄兵衛』大夫為始、悉親類共雖令別心、於母妻一身遠州懸河致供、籠城中昼夜走廻、殊巳正月廿一日、於天王山一戦之刻、走廻之段神妙也、只今迄以無足雖令奉公、進退困窮付而、暇之儀申之間、無相違出上者、東西於何方茂進退可相定、本意之上早々馳来、如前々可致奉公、本地・新地・代官所今度忠節分者、各可為並者也、仍如件、

元亀二年[辛未] 九月廿五日

 氏真(花押)

冨永右馬助殿

→戦国遺文 今川氏編2489「今川氏真判物」(島根県浜田市・江木徹氏所蔵文書)『』内は後世に裏打紙に記された破損箇所の補筆。

 去る永禄11年(戊辰)12月13日に駿河国が内戦となったその際に、興津城から随伴し、そのために、兄兵衛大夫をはじめとして親類が全て裏切ったとはいえ、母・妻は体一つで遠江国掛川に供をした。籠城中は昼夜活躍して、特に巳年の1月21日、天王山で一戦したときに活躍したのは神妙である。現在に至るまで無給で奉公してくれているとはいえ、生活に困窮して暇乞いを願っているので、相違なく出そう。その上は、東西どちらにでも進退を決めればよいだろう。本意を遂げたならば早々に駆けつけて、以前のように奉公するように。本知行・新知行・代官職も、今度の忠節の分として、それぞれ並べよう。

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