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本能寺の変:関連新史料への私見

『歴史街道』2014年9月号39ページにおいて、新発見されたという『斎藤利三宛長宗我部元親書状』の大意が掲載されていた。この文書は、本能寺の変直前に長宗我部元親が織田信長に従っていた根拠という触れ込みで報道されている。

この記事での解釈は歴史作家の桐野作人氏によるものだが、管見の限りでは他例が見当たらない独自の解釈をされていた。私自身はこの文書は改竄された写しであると想定しており、その視座から内容を検討してみる。

※現物については林原美術館にて概要と画像が紹介されており、テキストデータ化されたものはtonmanaangler氏のサイト『国家鮟鱇』の記事「長宗我部元親書状(斎藤利三宛)修正版」を参照した。

私が違和感を感じた部分について、原文の下に読み下し、そして桐野氏解釈を並べてみよう。

原文:追而令啓候、
読下:追って啓せしめそうろう
解釈:書状拝見しました。

「書状拝見」だとするならば原文は「貴札忝致拝見」もしくは「来翰披閲」となる筈なので、この解釈は成立し得ない。「追ってご連絡させていただきます」とするのが妥当だ(ただそれでも、先行する書状について言及していないのが不審だ)。

そもそも桐野氏はこれを本文文頭としているが、「追而」で始まる表現は見たことがない。内容も元親の心情が語られているだけの補足文であり、書状の文頭とは思えない(後半に条書を伴う場合、最初に、相互の通信状態の確認や、発信者の近況を語るものが多い)。いきなり箇条書きで始まる書状例も複数あるので、無理に本文としなくてよいから、これは追而書の一種であるか、後世挿入された文と見た方が自然だ。ちなみに、追而書でも「令啓」と続ける例は管見では存在しない。

原文:今度御請、兎角于今致延引候段、更非他事候、進物無了簡付而遅怠、
読下:このたびのお請け、とかく今に至り延引そうろう段、さらに他事にあらずしてそうろう、進物に了簡なくて遅怠、
解釈:今度、(信長の朱印状の趣旨を)お請けすることが延引したことは他意はありません。進物は考えが及ばず遅怠しました。

「他事にあらず」の内容が「進物に了簡なくて」を指す点は、両文が直接つながっていることから間違いない。延引と進物不備が別文になるのであれば、「加之」や「将又」を入れて区別すると思われるためだ。進物不備を形ばかりの理由にした白々しい外交文言であると私は考えた。

原文:此上にも 上意無御別儀段堅固候者、御礼者可申上候、
読下:この上にも上意ご別儀なき段堅固にそうらえば、お礼は申し上げそうろう
解釈:このうえは、(信長公の)上意に逆意はない(元親の)気持ちは固いので、お礼は申し上げます。

「別儀」が丁寧語になっていることから、別儀がないのは上意であって元親の気持ちではない。この「御礼」は割譲合意の挨拶を指すと思われ、前項の「御請」と同じ意味だろう。「織田信長の意思が変わらないのであれば合意の挨拶をするだろう」という文脈だと思われる。

余談ながら、武田攻めを指すと想定されている条項が唐突で曖昧な点はとても気になっている。

原文:東州奉属平均之砌、 御馬・貴所以御帰陣同心候
読下:東州が平均に属したてまつったの砌、お馬・貴所の帰陣をもって同心そうろう
解釈:東国(武田勝頼領)を平定なされた時節、信長公と貴方がご帰陣なされたので味方します。

「東州」を平定して「御帰陣」したのをもって「同心候」とあるが、であれば、「御成敗候ヘハとて無了簡候」(殺されようと了承しかねる)と、断固たる決意で大西・海部の保持を表明していた前項と齟齬が生じてしまう。実は、ここが書状の解釈を判りにくくしている。この条項を除外すると文意が鮮明になるため、ここは後世書き加えられた可能性が高いと考えている。前述『国家鮟鱇』での原文をベースにした解釈の復元案を挙げてみる。

○復元案(後世挿入と想定した部分は打ち消し線で表示)

[追而書]なお、頼辰へ残らず申し達したので内々の書状には及びませんが、心底の通り、粗々ではこのようになります。お計らいがないなどありませんように。

追ってお知らせします。私の身上のこと、いつも気にかけていただいて、いつまでもご配慮下さり、なかなかに全てを書き尽くせません。

一、この度の受諾、とかく今にいたるまで延引していることは、更に他事がある訳ではありません。進物で了簡もなく怠けていました。既に早くも時節・都合を延期していますから、この上は贈るには及ばないことでしょうか。但し、来る秋に重宝(調法)をもって申し上げれば、お目にかなうこともあるのだろうかと、その覚悟をしております。

一、一宮を始めとして、夷山城、畑山城、牛岐の内の仁宇、南方は残らず明け渡します。御朱印に応じたこのような次第をもって先ずご披露いただきたく、いかがでしょうか。これでもご披露はなり難いと頼辰も仰せになるので、いよいよ考えに残すところがなくなります。つまるところ、『時が来た』ということでしょうか。そして多年粉骨にぬきんでたのは、真意では毛頭ありませんのに、思いもかけぬご指示を受けたことは、了簡に及びません。

一、この上にも、上意は変わらないとの事が堅固でしたら、お礼申し上げましょう。どのような事態になろうとも、海部・大西の両城は保持しなければ叶いません。これは阿波・讃岐と競り合うためでは絶対ありません。ただ当国の門としてこの2城を保持しなければ叶わないのです。それでご成敗なさろうと了簡に及びません。

一、『東州』をご平定の際に、御馬があなたのところへ御帰陣なさるのをもって同心しました。

一、何事も何事も頼辰と話し合って下さい。ご分別が肝要です。万慶は後の連絡を期します。

後世挿入が事実であるとして、その動機は憶測するしかないが、「了簡に及ばぬ」と繰り返す、元親のやや挑発的な言辞を和らげ、長宗我部氏が根底では恭順していたと誘導したかったように見える。

などと色々書いたが、私は長宗我部元親の文書を殆ど見ていないため、合っているかは怪しい。もしかしたら元親はこのような表現をするかも知れない。2015年には今回発見された文書を含む研究成果が吉川弘文館から刊行されるとのことなので、詳しくはその内容を待ちたい。

※「追而令啓候」で始まる書状の本文について、その例を知らないと記したが、以下の例が見つかったので補記しておく。

追って申し候。京都の儀、先途竜蔵坊下国の砌か、しからざれば、態と脚力をもって申せしめべきのところ、林平右より具に注進の由に候。殊更先書に申すごとく、時に方々の注進を合わせ、此方より飛脚を差し登せ申すに、少しあい替わる様に候。諸侯の衆あい果てられ候様体、三好方へ出でられ候衆、変わるがわるに注し下し候条、承り合わせ申し入れべきと存じ候ところ、結句御使僧に預かり候。本意に背き存じ候。

[note]直江実綱宛の朝倉景連書状(読み下し)『戦国のコミュニケーション』(山田邦明・吉川弘文館)126ページ「添えられた追伸」[/note]

これは、足利義輝横死の状況を上杉輝虎に質問された朝倉景連が、使僧に渡した表向きの書状とは別に、同じ日付で発行したものだ。公には書けなかった情報や、親上杉派としての自身の活躍を記している。また、この書状を預かったのは景連側の人間だったようで、追伸とはいいながら、伝達経路は別立てである。

もしこの例が「斎藤利三宛の長宗我部元親書状」に援用されるならば、斎藤利三宛の表向き書状が同時に用意されていたのは確実といえるだろう。裏向き書状のみが石谷家に伝来したのは表向きしか渡さなかったためか。

それでもやはり私は気になってしまう。景連書状のように表・裏がセットで残らなかったのは何故か。そして、景連は追伸書状で「ただ、いまは(輝虎様へ)御披露なさらないでください。長い目でおとりなしいただければと思っています」(上記書・129ページ)と、実綱に輝虎への伝達方法を明記している。これが元親書状には見られないのはどういう訳か。

コメント 2

  • 高村さんどうも。

    「東州奉属平均之砌、 御馬・貴所以御帰陣同心候」については自分も一番に疑問を抱いた点でしたが、高村さんのご解説により納得がいきました。
    しかし高村さんはそれを後世の書き加えとお考えのようですが、それには異論があります。

    そもそも同書状が注目を集めたのは、それまで徹底抗戦の意を示していたと考えられていた長宗我部氏が、本能寺の変を前に「恭順の意を示していた」とのプレス発表にもあるように、そのことはかなり衝撃的なものであり、ご指摘のような「長宗我部氏が根底では恭順していたと誘導したかった」という作為があった可能性は無きに等しいのではないでしょうか。

    とはいえ、同条が「恭順」を訴えるものであることも確かです。
    自分は、同条は次の条とセットとして読むべきものであり、「自分には逆心などないので、正しい判断をするように」と述べたものだと思います。

    問題はそれを本音とみるか建前とみるかであり、冒頭でこれまでの恩を述べ、これまでの経緯と現状を語り、最後に「逆心」のないことを訴え、さらに追記で念を押すそれは、文字通りに読めば「自重」を求めているようですが深読みすれば「決起」を促しているようでもあります。

    • コメントありがとうございます。色々と判らない点が多い文書なので、ご意見伺えて勉強になります。「分別」の内容をどう捉えるかは、大切な論点になるでしょうね。

      ただ(ご意図が正しく読み取れているか少し自信がないのですが)、「東州奉属平均之砌、 御馬・貴所以御帰陣同心候」が後世挿入でない根拠が「そのことはかなり衝撃的なもの」というのは、論として難しいように思います。「通説に逆らうから真正である」という前提は成り立ちづらいかと……。

      もし当該条項が以下のような文言であったなら、私も違和感は持たなかったと思います。

      「雖然、関東奉属平均之砌之上者、 御馬・貴所以御帰陣、抛是非可同心候、」

      「しかるといえども、関東が平均に属したてまつるの上は、お馬・貴所のご帰陣をもって、是非を投げ打ち同心するべくそうろう」

      長宗我部元親にとってこの文言は極めて重要になる筈で、このようにきちんと記述すると私は思います。曖昧にした点から見ても、後世挿入の可能性があると判断しました。

      ちなみに「東州」を平定した賀意が述べられていないのも、この書状の不思議なところです。ただこれは、表向きの別書状で書かれたと見ることもできようかと思います。

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