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上杉顕定、佐竹右京大夫に、前年末に越後国衆進軍で降伏した上杉朝良の家督問題を報告する

去十五日簡札一昨日到着、具披閲、抑旧冬招越越州衆進発、然間、武相両州敵城、或自落、或攻落候之故、速静謐、依之懇切承候、快悦之至候、仍治部少輔朝良令隠遁、名代事彼家老者歎候間、言上之処、可被相任之段、被成御書候、如斯之上、号当所須賀谷地へ移候、爰元事、先以可御心安候、余者期後信候、恐ゝ謹言、

四月廿三日

 藤原顕定(花押)

謹上 佐竹右京大夫殿

→神奈川県史 資料編36451「上杉顕定書状写」(佐竹文書)

1505(永正2)年に比定。

 去る15日のお手紙が一昨日到着し、詳しく拝見しました。そもそも前の冬に召集した越後国衆が進発し、だからこそ、武蔵・相模両国の敵城は、あるいは自落、あるいは攻め落としまして、速やかに鎮圧しました。このご親切を得られましたことは、喜ばしい限りです。さて、治部少輔朝良は隠遁させました。家督のことで家老が嘆いていたので言上したところ、任せていただけるとの御書を頂戴しました。このようになった上は、こちらで須賀谷と呼んでいる地へ移送します。こちらのことは、まずはご安心下さい。その他は後のご連絡を期すことといたします。

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