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武田晴信、某に、小田原への加勢状況を伝え情報を求める

加藤丹後守由井へ相移候之処、自由井無用之由候哉、就之可被任其意候、仍如令附与大蔵丞口上候、跡部二郎衛門尉小田原ヘ相移之上者、上口へ可出馬之旨申越候、雖然葛山方之覚悟、不聞届候間、下口へ可進陣候、猶御厨辺之義、先日以跡次如申候、被聞届注進待入候、恐々謹言、

三月十日

 信玄(花押)

[宛所欠]

→戦国遺文 今川氏編1656「武田信玄書状」(2012年国際稀覯本フェア日本の古書・世界の古書)

永禄4年に比定。

 加藤丹後守を由井へ移しましたところ、由井より無用だと言われたのでしょうか。これについては先方の意向に任せますように。さて大蔵丞に与えました口上のように跡部二郎衛門尉を小田原ヘ移しました上は、上口へ出馬するだろうとご連絡しました。ではありますが、葛山方の覚悟を聞いていませんので、下口へ陣を進めるでしょう。なお御厨のことは先日『跡次』によってお伝えしましたように、お聞き届けになった情報のご報告をお待ちしています。

コメント 3

  • この由井とは氏照のことでしょうか?

  • 8)補足なり。 永禄4年&加藤丹後で、氏照かと思いました。もしそうなら、武田方にも「由井」と呼ばれていたのですかね。

  • コメントありがとうございます。ここでいう『由井』は大石家に入った氏照の家老たちを指すんじゃないかな、と思っています(氏照はまだ若過ぎるので、横地か狩野、布施あたりかも)。

    年比定は1561(永禄4)年でほぼ問題ないでしょう。但し、御厨(現在の御殿場)と葛山氏の動向を気にしているのが不可解なんですね。永禄4年にこの地方は緊張状態になく、1569(永禄12)年にむしろ符合します。物凄く低いのですが、「三月と六月は誤読しやすい」という点から6月に小田原攻め直前の様子を告げた可能性もあるのです。で、そうなると『由井』は現在の八王子市近辺に忍び込ませた間者かも知れませんね。

    ちなみに、鎌倉の由比ガ浜・駿河の由比は海と山の要衝につけられた地名です。何か関連性がありそうな感じもしますね。

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