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由良成繁、松本石見守に、後北条氏と武田氏の紛争状況を伝える


一幻庵息新三郎陣所、かんはら、冨士川取越被申事、[付、大石源三、屋形様江被及直札候事、]
一氏政、小田原打立十二日、
一駿河懸合者十三日、甲衆うきつにて四百四人討捕候、
一陣所、駿河のぬまと、
一甲之陣所、駿河之苻内、かつら山替候間、如此候、
一駿河之氏真、あへ山かへつほミ被申候、人数之儀、一騎一人無患候、
一新太郎、当月廿三日ニ駿河江罷立被申候、
一かつら山要害こうこく寺と申地利、自此方則候事、
以上
 由良 成重
十二月廿八日
松石 参

→小田原市史 資料編 原始 古代 中世Ⅰ 「由良成繁覚書写」(上杉家文書)

1568(永禄11)年に比定。

 覚書。一、北条幻庵の息子新三郎の陣所は蒲原で富士川を越えたと言われています(大石源三(氏照)が屋形様へ直接書状を出されたそうです)。一、北条氏政が小田原を12日に打ち立ちました。一、駿河国での交戦は13日。武田方を興津で404人討ち取りました。一、駿河国の今川氏真は安倍の山小屋へ撤退したとのこと。部隊は1騎1名も損害はありません。一、新太郎(氏邦)は今月23日に駿河国へ出発すると連絡がありました。一、葛山の要害で興国寺という場所をこちらから乗っ取りました。

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