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大徳寺の黄梅院

永禄5年に大徳寺98世の春林宗俶が黄梅庵を営む。この庵が後に「黄梅院」となる。この住持の法名「春林宗俶」と、氏政室の戒名「春林宗芳」が似過ぎている気がしてならない。「宗俶」も「宗芳」も同じ臨済宗大徳寺派なので似るのも当然かも知れないが、だとしても手抜きな戒名だと思う。早雲寺の本山に当たる大徳寺の「黄梅院の春林宗俶」が小田原で知られていなかった筈はない。その上で「黄梅院殿春林宗芳」とするとは、何か変な感覚だ。

武田家の「延命山黄梅院」は親の心情として判り易い。幼い息子を遺して20代半ばで逝った娘を弔うのに、「せめて寺号では長生きさせてやりたい」と長寿を連想させる『黄梅』を入れたのだろう。現代で言う中国原産のオウバイはまだ渡来しておらず、黄梅とは「黄色く熟したウメ」を意味したらしい。

前回までの推論を配慮すると、自害した智栄子は戒名「智栄鳳瑞尼」として武田に戻される。武田家はその菩提を弔うため、「延命山黄梅院」を建立する。戒名自体は変えられなかったか、変えなかった。

その後武田と再同盟なった後北条は、智栄子の位牌を引き取ろうとするが、拒否される。そこで、聞きつけた院号から大徳寺98世に近い戒名を再構築した。

このように流れを作ると、奇妙な部分はすっきりする。無造作な戒名の名付け役は氏政だろうと個人的に思う。

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