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北条氏康、三郎に、振舞等に関する条目3箇条を下す

条目

一、振舞朝召ニ可被定事、大酒之儀、曲有間敷候、三篇ニ可被定事、

一、下知之外虎口江出者、則時ニ可被致改易、若又可請公儀至于儀者、則可申越事、

一、家中者他之陣へ罷越、大酒呑儀、況及喧〓(口+花)口論儀、堅可被申付事、

 右三ヶ条、至妄自脇至于入耳者、永可儀絶候、仍如件、

 八月十日

 (氏康花押)

三郎殿

→小田原市史 資料編 小田原北条1「北条氏康条目」(神奈川県立博物館所蔵北条文書)

1556(弘治2)年に比定。

 条目。一、振舞は朝とるように決めなさい。大酒で間違いがあってはならない。3篇までと定めよ。一、命令以外で虎口の外へ出た者は直ちに改易とするように。もし公の用件で出るならば、連絡させるように。一、家中の者が他の陣へ行って、大酒を呑むこと、さらには喧嘩や口論に及ばないよう、厳重に指示しておくこと。
 右の3箇条を疎かにして、他者から耳に入ったなら、末永く義絶するだろう。

コメント 4

  • ご無沙汰しております。

    この書状は比較的よく知られているようですが、書籍等に引用されているものを見ると、宛先の「三郎殿」を氏康子息の三郎(後の上杉景虎)と解釈する見方と、北条幻庵の嫡子である三郎に比定する見方とに分かれるようです。実際にはどうだったのでしょうか?書状の内容が興味深いだけに気になってしまいます。
    書かれた年次が分かれば、どちらの「三郎」か判断する手がかりにもなりそうなのですが。

    • コメントありがとうございます。

      年次推定の決め手は「辰」になると思います。辰年の8月に書かれた氏康書状となると、1532(天文元)年、1544(天文13)年、1556(弘治2)年、1568(永禄11)年の何れかになります。

      天文元年当時氏康は17歳で初陣は済ませたものの当主ではありません。これは除外してよいと思います。永禄11年8月はちょうど「三郎」が不在なのでこれも除外されます(宗哲長男の『三郎』は死去して次男の『新三郎』が久野家を継いでいた。新三郎が戦死し上杉景虎となる『三郎』が仮名を受けるのは永禄12年)。

      ということで天文13年と弘治2年に候補が絞られますが、何れにせよ対象者は宗哲長男の『三郎』であると判ります。天文13年なら29歳、弘治2年なら41歳の氏康が、同年代の従兄弟に向けて教訓を示したということになります(父親同士の年齢差は6歳)。この三郎は関東公方への接待で3番目に名を挙げられるほどの有力者で、氏康が期待をかけていたことが窺われます(1560(永禄3)年7月20日死去)。

      小田原市史では花押で比定したそうです。この書状のそれが弘治2年の花押と近かったということでしょう。状況から考えてもこの年の後北条政権は安定しており、北条宗哲の隠居に伴って三郎に掟書を出したと考えられます。私は花押の比定はできないので専門家のコメントに従って比定記載をしました。

      ただ、個人的には「義絶」という強い言葉を身内に使っている点に注目しています。この書状に書かれている状態が現実だとすると、その軍は飲酒を中心に弛緩し切っています。凄まじい四面楚歌にあった氏康が、乱れる軍規を何とかしようと、気心の知れた従兄弟に強気の掟を出したのも知れません。

  • 丁寧なご説明ありがとうございます。確かにこれですと幻庵子息の三郎で間違いなさそうです。
    うろ覚えですが、ずっと前に読んだ書籍でこの書状を氏康子息の三郎宛と解釈した上、「武田への養子縁組が破談になって北条氏に戻り、失意のあまり酒に溺れるようになった我が子三郎を諭したものである」などと書いたものを読んだことがありますが、かなりいい加減な記述だったわけですね。だいたい三郎の武田養子説も、今では否定的な見方がほとんどだというのに。

    • ご納得いただけたようで何よりです。上杉三郎でない方の三郎は最近まで詳細が明らかでなかったということも、誤説を助けていたのかも知れません。氏堯(氏康末弟)・氏秀(綱成次男)が氏康の息子とされていた時代も長かったですし、後北条氏族についてはこれから色々と整理されてくると思います。

      ご不明な点がありましたらいつでもお気軽にお問い合わせ下さい 🙂

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