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遠過ぎる石垣山 その4

小田原合戦の推移

戦争を指揮していた氏政は、小峯御鐘台を中心とした丘陵地を一族で固め、台風を待っていたのだと思う。井細田や渋取川のラインを突破されたとしても、山上に踏み留まればよいと。現在の暦で8月中旬以降は台風が来易い。そもそもが、盆明けからこの辺りは波が荒くなって事故が多発するのだ。荒天時に行動は、その土地をどれだけ知悉しているかで安全性と速度が変わる。ゲリラ攻撃が頻発し海上輸送が滞れば、21万余と号す軍勢はすぐに飢えるだろう。窮して現地徴発を行なえば、各地で一揆が起きる。氏政が待ち、秀吉が危惧したのはこの状況だと考える。

そもそも秀吉は、分隊が各城を順調に開城させていることを怒っていた。「小さい城ばかり狙うな」「籠城した者は民間人でも皆殺しにしろ」と何度も書き送っている。鉢形・沼田・岩槻・江戸・八王子・津久井と、規模の大きな城を確実に占領し、一揆が起きないよう在地の指揮系統を壊滅させなければならない……と焦っていたのだろう。「口減らしにもならぬ」という歯噛みが聞こえるようだ。

このような東軍の作戦は、いわば受身の兵糧攻めのようなもので、ゲリラ戦に近い。これを最も体現したのが氏照の八王子城ではないか。交通監視や規模の点で滝山は比類のない完成度を持っていたが、氏照は敢えて八王子の山中に移った。これは、上杉輝虎・武田晴信の侵攻を経験したことで、逃走が容易で山岳ゲリラとなれる拠点の方が有利だと悟ったのだと思われる。事実、小田原合戦でも、横地氏は桧原城に退いて抗戦を試みたという伝承がある。八王子は落ちることで価値が出る城だったと考えている(この話は思いつきに過ぎないので、何れ稿を改めて考えてみたい)。

秀吉は「小田原は七月中に落ちる予定」と書いている一方で、自らの側室を呼んだり茶会を開いたりのはったりを仕掛けている。旧暦7月の後半はもう台風シーズンだ。兵站が滞れば秀吉が真っ先に逃げ出すのではないか、という憶測を消さねばならなかったのだと思われる。

小田原開城の理由

小田原合戦を兵站線を巡る陣地争奪戦として考えた場合、キーワードは海上補給の陸上拠点。ところが小田原近辺には港がない。

現在小田原港と呼ばれる早川は、大正時代に一時汽船が寄港したこともあるが、波が強いため2年足らずで取り止めになったという(相模湾における汽船交通史「小田原市郷土文化館研究報告46号」)。国府津にも汽船は来たが、客は艀で移動しなければならなかった。ちなみに酒匂川の河口も潮流が複雑で強く、港には適さない。私がいた頃は「酒匂川の『かわっちり』(川尻)で泳ぐな」というのは散々言われたものだった(夏になると観光客が毎年溺死したりもしていた)。

ここで1つ疑問が出てくる。相模湾の波が荒いとはいえ、後北条治世90年の間で、小田原に全く港湾がなかったのは不可解なのだ。鎌倉にも港湾がなかったが、外港としての六浦があったし、人工埠頭の和賀江島も築造されている。

そこで注目したのが篠曲輪である。山王川と渋取川の河口部にあり、総構とは木橋でつながれていたという。一般には、『出城のような施設があったものの総構に取り込めずに残ってしまい捨て曲輪とした』とされている。しかし、占拠されれば敵の橋頭堡になるものを、捨て曲輪としてでも残すだろうか。何らかの理由があって、総構から独立し、木橋でつながれた曲輪にした方が自然である。

となれば、笹曲輪と総構の間が船着き場になっていたという仮説も成り立つ。河口部を浚渫していれば充分使えるだろう。西軍の艦隊が入港しようとしても、篠曲輪と総構の両方から攻撃できる。そしてこの港が活きている限り、浦賀辺りに隠しておいた軍船をいつでも迎え入れられる。この曲輪は井伊直政によって6月22日に無力化されている。『新訂寛政重修諸家譜』によると、守備は山角定勝だったあるので、その上に立つのは松田憲秀だと思われる(憲秀の指南を取り次いでいたのが定勝)。更にいうと、東方面は氏直の管轄だったようだ。これは氏直が投降時徳川氏に赴いたことで判る。

氏直は6月12日に降伏に向けて話し合いが進んでいることを家臣に告げている。同じ日に、氏直の祖母と継母が死去していることから、かなりの軋轢が生じたものと思われる。その4日後に氏直は松田憲秀・政晴の謀叛を取り上げて断罪しているが、これは蜥蜴の尻尾切りにしか見えない。実際には、一門の誰にも言わず憲秀に交渉を命じていたのだろう。

そして、更にその4日後。折からの激しい風雨で篠曲輪の塀が破損した。それを逃さず徳川方が乗り込んでくる。かなりの激戦になったようだが、現場の山角定勝を支援する筈の松田憲秀は軟禁状態で機能せず。小田原城唯一の港は破壊されてしまう。

ここで氏直の孤立が始まり、氏房を巻き込んだ7月1日の極秘投降につながっていくと考えてみた。元来氏直は徳川家康・伊達政宗といった友好勢力に頼る傾向があった。それが、徳川・伊達ともに敵方となった状況での迷走につながったのだろう。小幡信定に対して氏直は「本国は安堵確定だ」と喜んでいるが、外交上のリップサービスを純粋に信じてしまう性向は30歳になっても変わらなかったようだ。

敢えて結果論から言うならば、氏政は小田原の東側・低地部を捨てる覚悟をした際に、篠曲輪・渋取口には氏規を据えるべきだった。一見反抗的な弟を韮山に遠ざけた結果、面従腹背の嫡男にしてやられた感がある。

  • 3月29日 山中陥落(グレゴリオ暦5月3日)
  • 4月06日 秀吉が早雲寺に着陣
  • 4月20日 松井田開城
  • 4月23日 下田開城
  • 5月23日 氏直病気のため氏政が執務代行
  • 5月24日 岩槻開城
  • 6月01日 氏直執務再開
  • 6月05日 伊達政宗が秀吉に出仕
  • 6月12日 氏直が降伏交渉を小幡信定に告げる・瑞渓院殿と鳳翔院殿が死去
  • 6月14日 鉢形開城
  • 6月16日 松田憲秀・笠原政晴の謀叛発覚
  • 6月22日 篠曲輪合戦(グレゴリオ暦7月23日)
  • 6月23日 八王子陥落
  • 6月24日 津久井開城
  • 6月26日 秀吉が石垣山に着陣
  • 7月01日 氏直が自身の降伏了承を小幡信定に告げる
  • 7月04日 韮山開城
  • 7月05日 氏直・氏房が出城
  • 7月10日 氏政が出城(グレゴリオ暦8月09日)

次回、小田原合戦を受けて徳川氏が構想した兵站線を考えてみる。

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